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ワン・アンド・オンリーな音楽家をめざして!



楽器との出会い

 小学校時代は「勉強としての音楽」が苦手だった。単純に歌を唄うことは大好きで、オペラとかグループ・サウンズの真似をして唄っていたものの、「音楽」の成績は5段階評価で1か2と悪く、「音楽」は苦手な教科と思っていた。ところが、そんな私が中学生になると同時にブラスバンド部に入ったのである。
 中学では必ず何らかの部に入らなければならなかったのだが、「体育」は「音楽」以上に苦手だったので、スポーツ系の部は最初から選択肢にはなかった。それで文化系の部の中で自分ができそうなものはないかと探していたところ、2年上の兄と同学年の従兄弟がブラスバンド部に入っていることを知り、その従兄弟と同じ楽器なら何とかなると思い、入部したのである。

 担当した楽器は「アルトホルン」というブラスバンド専用の楽器で、ホルンという名前がついているものの、チューバを小さくしたような形で「サクソルン属」という種類の金管楽器だった。ちなみにサクソルン属には、コルネットやフリューゲルホーンといったトランペッターが吹く楽器や、ブラスバンドの中音部を担うバリトンやユーフォニアム、そしてオーケストラでは欠かせない最低音のチューバまでたくさんの楽器が含まれている。

アルトホルン アルトホルン


 「サクソルン属」の楽器は、ポリュラー系の音楽には欠かせない金属製の木管楽器「サキソフォン」を考案したことで有名なベルギーの楽器製作者アドルフ・サックスが考案したものだ。
 つまり、サックスという人は、木管楽器にも金管楽器にも自分の名前を後世に残した偉大な楽器製作者なのだ。

 アルトホルンという楽器は行進曲などの後打ちのリズムを吹くことが多く、ほとんどメロディーらしきパートがなかったので、私でもすぐにマスターできた。それでだんだん自信が生まれ、成績も上がった。
 上達していくうちに音楽がどんどん楽しくなり、高校ではメロディーが吹ける楽器をやりたいと思うようになった。

ジャズとの出会い

 その後茨城高専に進学し、やはりブラスバンド部に入ったが、部員はほとんどいなかった。指導者もいなかった。だが、楽器はいろいろあった。数人の先輩を中心に少人数でのアンサンブルをする程度だったが、私はトロンボーンを吹いた。3年間で行進曲程度は問題なく吹けるようになったが、やはり少人数ではおもしろくなかった。
 4年生になってトランペットを吹いていた同期の友人からジャズをやらないかと誘われた。そのとき私はジャズのことを全然知らなかったが、友人からいろいろ教えてもらううちに、トロンボーンでは早いフレーズが吹けないと思い、いきなりアルト・サックスに転向した。もちろん独学だったが1年ほどで結構吹けるようになった。
 ジャズのことも少しはわかってきて、偉大なるテナー・サックス奏者のジョン・コルトレーンに魅了され、5年生のときにはテナー・サックスを吹くようになった。

 高専を卒業するとすぐに就職し、会社のビッグバンドに入って当初テナー・サックスを吹いていたが、リード・アルト・サックス担当の先輩が定年退職してバンドをやめたので、私がリード・アルト・サックスを任された。
 通常はジャズを中心に練習していたが、バブル絶頂期は、かなりの回数ダンスパーティーで生演奏していたので、ラテン系の曲をよく練習したことを懐かしく思い出す。

サラリーマン時代のジャズバンド サラリーマン時代のジャズバンド


 ジャズはやればやるほど楽しくなり、会社とは別の社会人ビッグバンドにも入ってテナー・サックスを吹いた。アドリブはなかなか上達せず納得できる演奏はできなかったが、とにかく吹くのが楽しかった。

人生を変えた人との出会い

 その後、20年勤めたところで脱サラしてパソコン関連の会社を立ち上げたが、時期尚早だったようであまりうまくいかなかった。そんな時期にも、外人さんが路上で実演販売していた「マウイ・ザフーン」という30cmほどの竹製の小さなサックス(一般的にバンブーサックスと呼ぶ)を手に入れ、趣味として吹いていた。
 そして法人会の総会に参加したときに、私の人生を変えた人との出会いがあったのである。
 その人といろいろ話し込んでいるうちに、趣味でマウイ・ザフーンという珍しい楽器を吹いていることを話し、実際に少し吹いて聞かせたのだが、音色がすばらしいから、本格的に演奏活動とか普及活動とかしたらどうかというようなことを言われた。
 それで私は奮起し「マウイ・ザフーン」の普及活動をすることを決め、この楽器の情報を集めたホームページを開設したり、通信販売サイトを開設したり、作曲にも挑戦して「竹の香り」(全10曲)というアルバムCDを自作したりした。
 そうしているうちに、NHK横浜放送局の方からのオファーで関東のローカルTV番組「こんにちはいっと6けん」に出演したり、読売・日本テレビ文化センター大森センターと横浜の楽器店でマウイ・ザフーンの講座を開講することができた。

NHK いっと6けん撮影風景
NHK いっと6けん撮影風景


 結局、パソコン関連の会社は知人に譲渡し、私は完全にこの楽器の普及活動を仕事にすることにした。

オリジナル楽器の誕生

 しかし、マウイ・ザフーンを購入して講座を受講しに来られた方の中には、手が小さくて指穴をうまく押さえられずに、挫折してしまった人が何人かいたのである。そこで、子どもや手が小さい人でも演奏できる小さな楽器が必要と思い、自分で装飾用のプラスチックパイプなどで、篳篥ほどの小さな楽器を試作してみたところ、これが思った以上にいい音色になった。その後、日本の篠竹を使い、指穴の数、運指、加工方法、仕上げ方法などを徹底的に研究し、試作を繰り返し、改良に改良を重ねて、ついに現在の「篳利胡(ヒチリコ)」というオリジナルのバンブーサックスを完成させることができたのである。その後も、長さの違うものを開発し何種類かの調の篳利胡をラインナップすることができた。

篳利胡(ヒチリコ) 篳利胡(ヒチリコ)

新たな目標に向かって

 いま思えば、やむを得ず入ったブラスバンド部がきっかけで音楽が好きになってサックスを吹くようになり、そのおかげでさまざまな出会いの中でやっと自分がやるべき目標(夢)にたどり着いた。
 このリレーコラムのバトンを私に渡してくれた佐渡ヶ島出身のYAMATO氏とは昨年末に出会ったばかりだが、私は篳利胡製作用の竹材を求めて佐渡ヶ島に行ったことがあり、そのときに調達した竹で作った篳利胡も何本か世に出回っている。佐渡ヶ島とは少なからず縁があるのだ。YAMATO氏との出会いは必然だったのかもしれない。長いブランクを乗り越え、自分で決めた3年でメジャーデビューするという目標を概ね達成した彼の行動力を、私も見習いたい。

 私の当面の目標は、篳利胡の知名度を上げて、ある程度メジャーな楽器にすることであり、この楽器で演奏した曲のCDをメジャー・レーベルから出すことであり、私自身がワン・アンド・オンリーな音楽家として認められることである。
 そして最終的な目標は、「篳利胡」を後世に残すことである。製作者を育成し、手作りのバンブーサックスの一つとして残したいのだ。さらにプラスチック製などの量産品として残れば、なおうれしい。偉大なるアドルフ・サックスには遠く及ばないが、自分が開発した楽器が後世に残り、素朴な音色を奏で続けられたら最高の幸せだ。

篳利胡(ヒチリコ)

(2009年3月19日)

今後の予定

篳利胡を多くの人に知っていただくためライブ活動をする必要があるので、現在曲の準備を進めているところである。
本格的なジャズをやることが将来の夢の一つなのだが、現時点での演奏技術では難しいので、当面はラテンやポップスなどのメロディックな曲を中心にするつもりである。
当面は、「カラオケ」に生のパーカッションを加えた擬似バンド編成の伴奏で演奏することにしている。

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

タンゴの巨匠ウーゴ・パガーノ池袋公演の前座演奏のときは、たいへんお世話になりました。
あれからだいぶご無沙汰しておりますが、今度また一緒に演奏できたらうれしいです。
ヒチリコの楽器としての精度も上がり、管(調)の種類も増えているので、ぜひヒチリコのために曲を書いていただきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
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