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ワンとウチナー

One Two Uchinaa!
2013年8月大阪釜ヶ崎祭りにて 鎮魂祭の様子

 初めまして。わんねー夏樹やいびん。私は、私の生まれ故郷「沖縄」を通して、三線・歌・ピアノで奏でたり、物書きをしたり、語り合ったり...そのようなことをやっています。活動は、関西が(奈良・大阪・時々京都)中心で、沖縄でも小さなイベントをしています。

 ご縁あって、とても幸せな機会をいただきました。そうして、今これをお読みの方とも出会うことができました。ふがらさぁ。

 「ふがらさぁ」とは、私の大好きな祖母の故郷・与那国島の言葉で、「ありがとう」という意味です。皆さまがよく耳にするのは、「にふぇーでーびる」だと思いますが、それは沖縄本島の言葉です。沖縄は人の数よりはるかに多い島々があります(無人島含む)。これらの島々では、それぞれ異なる言葉が用いられています。それは「島」だけではなく、市町村単位の「シマ」でも違うので、私のオバア世代くらいまでは、この小さなシマでいろいろな言葉が飛び交っていたのでしょう。

 さて、私の名前は「夏樹」ですが、小さい頃に「春樹・夏樹・秋樹・冬樹」という豪華キャストで絵本を書いたことがあります。「春樹」と言えば、作家の村上春樹さんが思い浮かばれますが、どこかで読んだ記事によると、村上春樹さんは原稿を書くときは音楽を一切聴かないそうです。私はその逆で、何か作業をするときは音楽を聴くことから始め、自分の頭の中の会話に感じない限りは、音楽と同居しております。

 そしてたった今、私は奈良の古墳群に囲まれた町で、喜納昌永のアルバム《芸能活動七十周年記念 喜納昌永沖縄民謡情歌特集》を大音量で流しながら(聴くというと、執筆に集中していないように聞こえますから...笑)、原稿を書いています。芝居サー(芝居をする人)になりたかったという昌永さんの歌は、人の心にそっと寄り添い、陰の中にも光が差し込むような、柔らかく高い声で、少し枯れた感じもまた味わい深く、情歌特集なだけに涙を誘います。

 私は恥ずかしながら、沖縄にいる頃は、全く沖縄民謡などに興味がなく、地元の祭りも年中行事さえも無関心で煩わしいとさえ思っていました。沖縄本島に生まれ育った私は、「大和化」された環境の中で、ピアノのレッスンを熱心に受け、相当練習に打ち込んでおりました。なので、高校生時分の音楽の授業でやった三線は、私にとっては最悪で、テストまでに《安里屋ユンタ》も習得できぬまま終わったのは、今でも友人たちの間で語り草になっています。

 そのような私がなぜ、「沖縄あんばさだー」などという肩書(自称)で、今こうして原稿を書いているのか...。

 私は2004年に、大学入学を期に京都に上洛しました。専攻は音楽学という分野で、志望動機は「ピアノをやっていたが日本のことを知らないから、日本の中心地で日本文化を学びたい」というもので、美しい白いパールのような心でやってきました。沖縄に居た当時、ピアノの調律を担当してくれていたおじさまに「海外に行くなら、日本の何かの曲が出来ると喜ばれるよ」と言われた言葉が衝撃的で、その頃から私はベートーヴェンやバッハを、ドイツを思い浮かべながら弾くことに対して少しずつ、自身の心に問いただすようになってしまいました。そこから私なりに「自分の足元」探しをするようになりました。すると、手っ取り早かったのは、沖縄のテレビやラジオ、街中で流れてくる、いわゆる「沖縄民謡」でした。今まで耳を音の出る方に傾けても、私の心まで届かなかった音が、その瞬間からスパッと私の体中に響き渡ったのです。ほかにも、地元の祭りでの「道ジュネー」というパレードのような日には家を飛び出して見に行くようになりました。そのときの、文字通り「血が騒ぐ」という感覚は今でも覚えています。そういう経緯を経てもなお、大学に入学するときには、まだ「自分の足元」が沖縄であることを伏せて、大義名分で「日本文化が足元」だと思っておりました。しかし、大学に入った途端に「日本人」である私の幻想は崩れ、この特徴的な苗字のお陰で、私は「沖縄人」であり続けてしまい、「沖縄の言葉って何?」「三線弾けるよね?」といった、周りの期待に応える形で、私は沖縄に歩み寄り始めました。高校のときにあれほど嫌だった三線は、ものの30分の間に、工工四(くんくんしー:三線の楽譜)を読んで《安里屋ユンタ》を歌いながら弾くことに成功し、調子に乗って独学で何曲かを制覇しました。独学なので、後に色々な粗を発見しますが、そんなことよりも三線を弾いたときの幸福感と琴線に触れる感じは、またもや「血が騒ぐ」体験を呼び起こしてくれました。とは言いつつも、「なんでわざわざ京都に来て沖縄なの?」という自他ともに浮かび上がる疑問に答えを出せないまま、卒論、修論と沖縄の音楽をテーマに取り組んでしまいました。人はそれまでにいた環境から出てみて初めて、自分のいた場所が見えると言います。私はそういう体験をしたんだと思います。もともとは沖縄に強い関心を持って始めたというよりも、「これはなんだろう?」の繰り返しで掘っていくうちに、土つぼに填まって、今の今まできて、文字通り「ハマる」という感じで現在に至っています。

 私は、小さい頃あれだけ毛嫌いしていた沖縄を、今は誇りに思っているとまで言うと大げさですが、でも空気のような、無くてはならない存在であると思っています。今は縁あって奈良に拠点を置き、多くの方々に支えてもらいながら、ここ関西から発信しています。私はきっとどこに行っても、何年沖縄を離れても、私が「沖縄人」であるという事実は消えることはないと思っています。かといって、私は沖縄に在住している「沖縄人」とは同じ土壌には立てないけれども、それでも私は「沖縄人」なのです。関西には「在阪沖縄人」というネットワークがあり、その中で「1世」「2世」という名称を用いてそれぞれの立場を表すことがあります。アメリカに渡った日本人を、「日系アメリカ人1世・2世」などと表現するのと同じように...。そういう流れで言うと、私は「在阪沖縄人1世」となります。日本国籍だし、こうやって日本語も書いていますし、顔も少し濃いのが特徴的であって、日本人ではあります。ただ、やはりどこかで文化的・習慣的な違いを多々感じることも事実で、それを差別的に(本土⇔沖縄)考えるのではなく、琉球王国それ以前からの歴史的な背景や地理的条件を考えたとき、日本本土と沖縄となにかしらの差異が出てくるのは当然のことだと思っています。もっとも、日本列島自体、画一的な文化を持っているのではなく、さまざまな特徴を持っていると言えるのではないでしょうか。

 ここで、冒頭にご紹介した写真について説明します。通称「釜ヶ崎」(もしくは「あいりん」)地区は、大阪市西成区にあり、多くの日雇い労働者が生活をしています。その地域には沖縄出身者も数多くいます。そのようなこともあり、年始には炊き出し、夏には夏祭りといった行事に、在阪沖縄人が駆けつけます。

 毎年お盆の時期に開催される夏祭りでは、屋台や相撲大会、ゲーム大会などに加えて、音楽のステージも行われ、釜ヶ崎の方々はもちろん、日本各地から様々な人が遊びに来て、とても賑やかになります。私も音楽のステージに参加して、三線と歌・ピアノと歌をしましたが、釜ヶ崎のおじちゃん・おばちゃんの温かい声援と共に、何だかいつもとは違う体験をしました。釜ヶ崎の方々にとって癒しのヒトトキになってくれればと、私は偉そうなことを思っていましたが、「今を共に楽しむ」という感覚を思い切り楽しませてもらいました。

 写真は、その夏祭りでの鎮魂祭の様子です。

 誰のための鎮魂祭か...?

 それは、これまでのご先祖様に対するものでもありますが、この夏祭りまでに、釜ヶ崎で天命を全うした仲間たちに対しての鎮魂祭なのです。毎年、100人は優に越えていると思われます。というのも、確認できていない方も大勢いらっしゃると聞きました。鎮魂祭では、牧師さんとお坊さんが亡くなった方々のお名前を呼びます。しかし、普段の釜ヶ崎ではお互いをニックネームで呼び合うことが多いので、本名で読み上げられても分からないということも多々あるそうです。それでも、鎮魂祭が始まると、賑やかだった会場は急に静まり返り、人々はじっと、牧師さんとお坊さんの声に耳と心を傾けます。来年は我身かと思うと、今という一瞬が、今ここで皆と一緒に居られるこの瞬間が、幸せで且つ儚い。いろんな人の、いろんな想いが漂うなか、そっと、風が人々の間をくぐり抜けていきました。

 ここまで長々とお話しさせていただきましたが、私は、「沖縄」という自分の故郷であり、原点である場所を通して、 多くの人と出逢い、多くの音に導かれ、なにかに引き寄せられています。音楽は時に人に癒しを与え、時に悲しみの涙に浸らせます。音の先には必ず人がいて、人は人に支えられて生きていて、音楽が生まれる前と後には、多くの人達の幾重もの体験や感動が織りなされているのです。

 私は沖縄に居た頃には気づかなかった「沖縄」を、今、沖縄とは全く違った風景の「奈良」から見て、自分なりに描いています。そして、これからも...。

 いつかどこかでお会いいたしましょう! ふがらさぁ!

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沖縄に取材に行った時に、立ち寄った首里金城町の大木「アカギ」。樹齢300年。この木を眺めていたら、このアカギの広場を管理しているというオジイに遭遇し、アカギの古い歴史の話と、オジイとアカギの関係を話してくれた。
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このような清掃道具をオジイが準備し、定期的に綺麗に掃除をして、大切にこの広場を守っている。
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そのオジイから話を聞いた後にアカギをもう一度撮り直したら、私自身が倒れたわけではないのに、このような一枚が撮れた。一瞬にして違う次元に行った感覚になった。(詳細は個人発行誌『琉球之響』に後日掲載予定。)
2014年12月奈良平城のライブにて
2014年12月奈良平城のライブにて

 三線で歌ったり、ピアノで歌ったり、誰かとコラボしたり、曲を作ったり...。「かなでる・かく・かたる」といった活動を通して、これからも私なりに発信していきたいと思っています!

(2014年12月15日)

今後の予定

2015年2月22日「黒い目の若者達。知られざる沖縄」
沖縄の若者たちによる比嘉座イベント。関西で知り合った沖縄人1世2世がそれぞれの「沖縄」を表現します。
◎座長の絵本発表
◎座長による一人芝居:おばあからの戦争体験を聞き取りを元に作った完全うちなーぐち芝居
◎《艦砲ぬくえぬくさー》合唱:戦争体験をしていない我々が当時の若者になって歌います
◎こども達によるうちなーぐち芝居「わーわーわーわー」:三匹の子豚・沖縄バージョン
◎トークセッション、他。

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バトンタッチメッセージ

なおさんとイベントを始めるようになって長い月日が経ちました。茶道のお稽古を一緒にやるという再会を経て、今でもこうしてご一緒できることに幸せを感じています! そのパワフルさと、鋭い感性にいつも刺激を受けています。コラム、楽しみにしております!

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