ネットTAM

8

芸術家のカラダと心を支える仕組み


特定非営利活動法人芸術家のくすり箱

私たちに感動を与えてくれる芸術家たちのパフォーマンスや作品。その表現活動は日々の練習や努力の積み重ねが実を結んだものですが、ときに身体に負担となり、重要な傷病をもたらすこともあります。今回ご紹介するNPO法人「芸術家のくすり箱」さんは、芸術家の活動環境を健康面から改善するために活動をされています。芸術家と医療従事者の間に立ち、芸術家のヘルスケアの重要性を発信し続けています。設立から団体に関わる小曽根史代事務局長にお話を伺いました。

小曽根史代さん
小曽根史代さん

NPO設立のきっかけと目的を教えてください。

小曽根:私たちNPO法人の目的は、ヘルスケアのサポートを通じて芸術家が元気に自分の才能を発揮できる環境をつくることです。
 日本の芸術家の活動環境は、ほかの職業に比べ脆弱です。仕事上のケガであっても多くの場合は自己責任、治療費も自己負担という状況で、治療のための休業中の収入も保障されません。そのため、ケガやちょっとした痛みがあっても我慢して活動を続けざるをえず、実力が発揮しきれなかったり、場合によっては大きなケガにつながりその道を断念せざるをえないこともあります。そのような芸術家の活動環境の不安定さは、日本の芸術文化の発展を妨げていると感じ始めたころ、同じように問題意識をもつコンディショニング指導者、ダンスの身体科学の研究者などの専門家が集まり勉強会をはじめるということで、初期メンバーとして参加した会が「芸術家のくすり箱」の前身です。
 さらに、もうひとつのきっかけとしてローザンヌ国際バレエコンクール「日本事業部」の閉鎖がありました。若手ダンサーの登竜門として有名ですが、教育的側面が強く、舞台での踊りだけでなく、プロとして成功する能力や、将来性を伸ばすためのレッスンを受けさせ、身体の状態を見たり、ダンサーが解剖学を学ぶ時間も設けられています。日本事業部では、このコンクール出場の手配をサポートするだけでなく、ダンサーが自分の身体をきちんと知り、ケア(保護)するためのセミナー等もしっかり実施されていました。まさに私たちが必要と考えていたことが、すでに行われていたことに感嘆したのを覚えています。その日本事業部が2005年に終了すると聞き、"その意思を引き継がなければ"と意識するようになりました。海外の状況を調べてみると、ニューヨークには病院の中にダンサー専用の治療・リハビリ施設「ハークネスセンター」を備える事例があり、カナダにも芸術家専用の診療室がある。社会制度が違うため、同じシステムを日本に持ってくることはできませんが、芸術家のための医療・リハビリの場の必要性を強く感じました。医科学者を中心とする学会も、アメリカには国際ダンス医科学学会(IADMS)やアスペン音楽祭と同時開催される国際芸術医学会(PAMA)などがあります。ヨーロッパでは、芸術系のカンパニーの中にちゃんとケアの体制が整備されています。活動環境が整っているから海外に渡るという日本人芸術家も少なくありません。日本人の活躍を、日本で見ることができないという、もったいないことが起きているのも歯がゆく思いました。とはいえ、日本の芸術団体の多くは余裕がなく、個人のヘルスケアまで関わることが難しい。そこで、中間組織として、みんなに使ってもらえる場をつくることになったのです。
 「芸術家のくすり箱」というネーミングは、「芸術家」に向けたものという大事なメッセージを込め、開けたらさまざまなヘルスケアが出てくるイメージで「くすり箱」とつけました。

特定非営利活動法人芸術家のくすり箱
団体ロゴ

芸術家をサポートする4つの柱

小曽根:「芸術家のくすり箱」は、主に「セミナー事業」、「ヘルスケア支援事業」、「調査研究・支援」「情報提供」の4つの事業を行っています。
 1つめの「セミナー事業」は、大きく分けて2種類あります。身体の仕組みを知りコンディションを上げる方法や、実際にケガをしたときの対処法を伝える芸術家向けの講座やワークショップと、治療例や実際のパフォーマンスを見て芸術家がどのようなケアを必要としているのかを共有する医療関係者向けのセミナーを開催しています。
 2つめの「ヘルスケア支援事業」は、実際にケガや故障が起こってしまい活動が困難になった芸術家に対するフォローです。症状に応じた専門の医師を紹介する個別相談のほか、治療やリハビリに対する資金提供と、復帰後の再発予防も含めたトレーニング方法を提案する助成プログラムを行っています。
 また、芸術家が職業病と諦めているケガや不調をできるだけ起こさないようにする取り組みも、我々の役割だと考えています。3つめの「調査研究・支援」では、バレエ団やオーケストラ、劇団、能楽協会などを通じ、プロの芸術家を対象に5年に一度アンケートを行い、芸術家の身体の状況やニーズを報告書にまとめています。このようにジャンル別でヘルスケアに特化した調査結果はほとんど例がなく、かなり興味深い内容になりました。例えば、一見、動きが少なく見えるオーケストラの演奏家の半数が「職業上のケガ・故障で治療を受けた経験がある」と答えていて、実は身体への負担が大きいことが明らかになっています。数値化することで、そのケガが個人特有のものなのか職業病として起こりやすいのかが判断しやすくなり、医療関係者の参考になっています。また、ジャンル別の不調の特性も見えてきます。何かしらのケガを経験している95%のバレエダンサーは、女性に比べ男性の方が腰に故障が多いことがわかりました。女性ダンサーを持ち上げるという特有の動きによるものと思われますが、今後も女性と同様のレッスンでよいのか、予防する方法はないのか、考えるきっかけになるのではないでしょうか。
 4つめの「情報提供」に関しては、ウェブを中心に、ヘルスケアの重要性が伝わるような身近な芸術家のインタビュー記事や、自身でできるケアの情報などをアーカイブ的に掲載しています。また会員向けではありますが、芸術家のケアを行う会員の医療関係者情報を、年に一度リスト化してウェブと紙媒体で発信しています。

ヘルスケアセミナーとウェルネスデイとは?

小曽根:当団体の活動の核として、芸術家向けにヘルスケアセミナーを、医療者向けにはウェルネスデイシリーズを毎年開催しています。
 ヘルスケアセミナーは、設立当初、コンディショニングをはじめ、芸術家ならではのヘルスケアを体感できる「場」をつくりたいというコンセプトで始めたものです。「ケア」というと、整体とか鍼灸といった受身なものが連想されがちですが、自分でケアする重要性を伝えたくて。ピラティスやヨガのワークショップ、同時に、芸術活動に活きる知識として食事や栄養面、身体の仕組みを知ったうえでケガ予防につなげるような解剖学の講座も開催しました。そして、反響が大きかったのが健康診断。学校を卒業してから一度も受けていないという人が続出しました。また、スポーツドクターや保健師を招き、病院では「様子をみましょう」といわれてしまう病名がつかないような症状を個別相談できる場も設けました。芸術活動に理解ある先生方をお招きしているので、パフォーマンスに支障がある症状にどう対処するか、親身に回答していただき好評です。毎年、ワークショップ、座学、健康診断、個別相談という4つのスタイルを崩さずに開催を続けています。継続していくなかで、芸術家を傍でサポートしている人を巻き込んでいく取り組みも始めました。若いダンサーの保護者やマネージャー向けの食事や栄養に関するプログラムや、制作者のための応急処置の講座など。今年は、いざというときに活かせる保険の講座を入れました。芸術家自身へのアプローチとともに、周囲の関係者にもヘルスケアを実践していただく重要性を感じています。
 医療従事者向けのウェルネスデイシリーズは、芸術家の治療経験の豊富な医師や理学療法士らが症例発表を行い、芸術家のケアをすることの多い鍼灸師やトレーナーなど他業種の方へ医科学の現場の知識をシェアするものです。さらに医療者やトレーナーがダンスのレッスンを体験したり稽古場を見学する場も設けています。同じ動きを体験したり、実際に稽古している姿、筋肉の動きや汗のかき方を見ることができるため大変好評です。
 当団体の設立10周年という節目の今年は、この2つを合わせて「トータルヘルスケア・フォー・アーティスト」というイベントを開催しました。

ヘルスケアセミナーvol.10 特別招聘プログラム:ジャイロキネシス 2015年6月6日 提供:芸術家のくすり箱
ヘルスケアセミナーvol.10 特別招聘プログラム:ジャイロキネシス
2015年6月6日
提供:芸術家のくすり箱
ヘルスケアセミナーvol.10 講座:いざというときの'保険'の話
ヘルスケアセミナーvol.10 講座:いざというときの"保険"の話

ユーザーの変化や、それに対する施策などを教えてください。

小曽根:10年前は芸術家がヘルスケアについて語るのはタブー視されていたといっても過言ではありません。「ケガをおして乗り切った」というのが美談であったり、「ケガ=仕事がなくなる」と。そこで「きちんと情報を共有・発信して、ケガをしない訓練をしよう」という啓発がとても重要でした。変化を感じるのは、SNS大隆盛のなかで海外の芸術家のトレーニング方法などさまざまな情報を知ることができるようになったこと。そこで、指導者たちも古い練習だけではなくケガをしないトレーニングを取り入れているようです。逆に情報があふれ過ぎて判断に困ることも。そういったときに10年の実績がある「芸術家のくすり箱」を辿ってこられるという感覚があります。そこで、3年くらい前からHPを充実させ、楽しい読み物も含め、欲しい情報が探せるようにしています。SNSに情報を流すと劇場や業界のキーマンの方々がフォローや拡散をしてくれて、これまで関わりのなかった人にも伝わっているように思います。
 芸術家をケアできる人たちが圧倒的に増えたことも大きな変化です。10年前はその道の第一人者が海外から帰ってきてメソッドを伝え始めた頃でした。その後、指導者の育成が進み、ピラティスやジャイロキネシスの経験を積んだ指導者がここ数年で急激に増え、情報発信をするようになりました。そういったことから、今年はヘルスケアセミナーで公募制の枠をつくりました。芸術家のためのケアの「場」を有料で提供する形ですが、選ばれた講師の先生方は、専門のメソッドを伝える場として活用くださり、しっかりと集客しています。
 医学に関しても、個々に活動していた芸術を専門にする医師たちが、日本音楽家医学研究会日本ダンス医科学研究会などを立ち上げ、横のつながりをもって、この分野のブラッシュアップの活動を始めています。

今後の課題、目標を教えてください。

小曽根:財政面の改善です。ヘルスケアセミナーでの講師の公募もその一環ですが、10年間で関わりのあった皆さんの思いを形にするためにも、少し割り切ったシステム化が必要だと考えています。芸術家個人ではなくて、カンパニー単位、協会単位に働きかけることで、効率よく情報を共有できるのではないかと。また、公演を中心に、きちんとケアの専門家を配置して、公演の前後の長いスパンで提供できるようにするのも目標です。芸術家と専門家の信頼関係も生まれ、ケガ・故障の予防もできる。そういったプログラムを団体ごとにカスタマイズして長いスパンで展開していけると、芸術家のヘルスケアについての情報も拡がり、ブラッシュアップしていくのかと。そのためには、芸術家を管理したり、アドバイスできる立場のアートマネージャーに、リスクマネジメントの観点からヘルスケアマネジメントの重要性を伝えていきたいですね。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて

小曽根:「スポーツの祭典ではなく文化の祭典だ」と言われ、芸術家の出番が増えると盛り上がっていますね。ステージが増えるのであれば、これをチャンスにヘルスケアを充実させていきたいです。スポーツと同様身体を使って表現する芸術家のために、スポーツ医学と情報を共有し、芸術医学が普及・発展する機会になることを願っています。そして、芸術家側もそれがあたり前のことだと認識し、活躍の場が増えて喜ぶだけでなく、職業人としてヘルスケアを実践できる環境を要求してもらえると、芸術家のヘルスケア、芸術医学も発展し、今後ずっと使えるものになるのではないかと思います。オリンピックが、職業としてアートがとらえられるよい機会になることを期待しています。

小曽根史代さん
この記事をシェアする: