これからの数年間は、この問いに真摯に答えていく数年間になるだろう。
芸術がいまだに「余裕のある人の趣味・娯楽」だと思われている現状は、近年の表現を取り巻く動向や、コロナ禍での支援を求める文化芸術関係者への冷ややかな反応で、情けないほど明らかになった。

その原因は単純ではないとはいえ、私たちはあまりに説明や対話を怠ってきたのではないか。アートトランスレーターとして人と人のあいだに立つなかで感じるのは、言葉を発すれば(もしくは発せずとも)コミュニケーションが自然に成り立つと信じて疑わない人が多すぎる。他者という圧倒的な世界と向き合い、その声に耳を傾け、互いを敬いながら対話をすることは、想像力と創造力を総動員して行うクリエイティブな行為であるはずだ。

しかし、他者や世界との距離感があまりにめまぐるしく更新される昨今、人と人のあいだに何を見とめるべきか、わからなくなるのも当然かもしれない。自動化が進み、簡略化したコミュニケーションで満足できるよう飼い慣らされた日常で、SNSにあげる言葉が誰にどう届くのか、その状況や相手を想像できない人も多い。国や海を越えて蔓延するウイルスには全世界が同時に苦しみ、これほど地球の裏側の出来事を身近に感じたこともかつてなかった。 

そんな更新され続ける人々の「あいだ」をどうつないでいけるかに、冒頭の命題への答えが眠っているように思う。確かなものが何も無くなった今(もとからそんなもの無かったのだけど)、目に見える物や単純な言説、線引きのはっきりした枠組みに安心を求めることはやめよう。その代わり、これまで以上に想像力と創造力たくましく、人と人のあいだに新しいあいだを生み出していく。点と点を線で結ぶだけでない、人と人を言葉で橋渡しするだけでない、新しいコミュニケーションのデザインが必要だ。

そうして「あいだ」から生まれる新しい表現を携えて、芸術が不要不急でなく、人の命の根源を支えるものであることを、多様な人々と確認していきたい。