SNSを見ても、テレビを見ても、私たちの心をくすぶろうとするキャッチコピーが視界に入ってこない日はない。特に社会が狂騒の只中にあったり課題に直面しているときに流通している言葉は、文脈や本当の意味を隠すようにして過剰供給され広まっていく。まるで誤読を促すかのようにして。“絆”も“SDGs”も”ジェンダーバランス”も“丁寧な説明”も、もはや都合の良い免罪符的な記号と言ってよい。
 
とてもとても小さな業界であるアートマネージメントの世界でも、そんな言葉になり得るものはたくさんあって、私もたくさん使ってきた。例えば、誠実なアート関係者であればあるほど使いがちな“他者を想像する”や“解像度を上げる” や“社会実装”といった言葉やフレーズも、使っている当人の意図や想いを薄めてしまうくらい業界内では供給過剰気味だ。それでもこの狭い業界の外に対して発する言葉としてはまだ強度があるし、今のような危機の時代にアートが社会に在ることの豊かさを伝えるための大切な言葉であることは間違いない。

けれども私はここで、かつて哲学者の鶴見俊輔が指摘した「言葉のお守り的使用」をどうしても思い出してしまう。権力者や体制が放った言葉が、真の意味を理解されないままお守りのように正統化され、私たちをゆるやかに支配していくように、アートを語る言葉を形骸化させてはならない。アートに対する疑いなき信用を振りかざすことなく、これ見よがしにアートの大看板を掲げず、どうやって小さな言葉を紡いでいったらよいのだろうか。言葉がどんどん希釈されていく時代のなかで思い悩んでいる。