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朧げな光、手繰り寄せる糸


2011年に「震災復興におけるアートの可能性」で始まった「社会におけるアートの可能性」は東日本大震災をきっかけに、被災地支援や復興のために行われてきたさまざまなアート活動について、災害全般に枠をひろげながらアートが果たせる役割や可能性についてご紹介してきました。

今回は2024年1月1日に発災した令和6年能登半島地震で被災した「奥能登国際芸術祭」の復興を基軸に、芸術祭の枠を超えた復興に今もなお尽力されている「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」をご紹介します。また、これより連載で、2017年より始まった同芸術祭を通じてつながる人々の活動を通して、復興状況の今をご紹介します。

珠洲に心を寄せる人たち

2024年1月1日能登半島地震をニュースで知る。珠洲市役所の担当者と連絡をとり、関係者の無事を確認したものの、被害の全容は依然として不明だった。

以降、奥能登国際芸術祭2023をきっかけに珠洲に心を寄せる人たちから支援の申し出をうける。1月4日、泉谷満寿裕珠洲市長、北川フラム総合ディレクターのオンライン会議。長期にわたる支援が決まり、チームメンバーが編成される。弥栄(いやさか)を意味する珠洲の祭りの掛け声から名前をとり、「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」が立ち上がる。

アートの出番じゃない

1月13日、震災後初めて現地を訪れる。金沢からの道のりは難航した。道路があちこち損傷し、通常2.5時間のところが6時間以上を要した。口能登、中能登、奥能登と北上するにつれて風景が壊れていく。珠洲に着くと、ヘリコプターによる自衛隊の補給がまちなかを行き交っており、まだ行方不明者の捜索も続いていて、緊迫している。市役所は、自衛官、各省庁などから来た応援者であふれている。市内全域でライフラインが使えず、避難物資に頼った生活が続いているとのことだった。とてもアートの出番じゃないと思った。

翌日から、災害救助の邪魔にならない範囲で作品点検を行う。2次災害が起きないように作品の応急処置も行った。道路があちこちで壊れていて一度に行ける範囲が限られるため、通いながらの作業となった。芸術祭アーティスト、建築家、研究者などの協力のもと、3月ころまでに点検・応急手当が完了した。

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牛嶋均「松雲海風艀雲」 地すべりでグラウンドから崖に落下

現地パートナーの復活

一般社団法人サポートスズという組織がある。珠洲市への移住者を中心に構成され、奥能登国際芸術祭サポーターのコーディネート、作品の制作・管理・メンテナンスのサポートなどを行っていた。震災以降業務が停止し、3月31日をもってスタッフのほとんどが解雇となった。大地の芸術祭のチームと連携し、一部の職員について越後妻有での一時的な雇用を実現した。ほどなく、全国各地からの寄付金に加え、震災に関連した助成金(一般財団法人 日本民間公益活動連携機構(JANPIA)公益財団法人 小笠原敏晶記念財団)を活用することができ、7月1日からサポートスズの雇用が復活した。現地にパートナーとなるチームがいることで活動の範囲が大きく広がる。

関係を繕う場

その頃、珠洲市は復興計画を策定する中で、積極的に住民の意見を聞いていた。若い世代や移住者の声を拾ってほしいという依頼が珠洲市からヤッサープロジェクトにあった。一口に被災地といっても、家を失った方、仕事をなくした方など状況はさまざまであり、一緒くたにして将来の珠洲を話し合うのは難しい。復興よりも復旧が先だろうという声も強かった。時にはアーティストのワークショップも交えながら、子育て、学校、仕事、家などのテーマを語り合う「ちゃべちゃべサロン」を開催した。一緒に手を動かすなどの行為は、話し合いの場で潤滑油のような役割を果たしていた。述べ185名が参加し、集まった意見を12月23日に珠洲市の復興本部に届けた。

大谷地区は震災の土砂崩れなどでアクセスの悪い場所になり、工事業者やボランティアも入りにくく、復旧の遅れが懸念されていた。復興関係者にもサポートが必要だという話になり、支援者を支援する場をつくろうと奥能登国際芸術祭2023でつくられた潮騒レストランの再開をめざした。震災以降、断水によって休業していたが設備を直し、8月10日に営業が再開した。工事関係者も作業の合間に利用していたが、お茶飲みなどの居場所を失っていた地区の人たちの喜びは大きかった。伝統的な民具でごはんを食べるワークショップなどを通じて交流の場づくりが進んでいったが、9月21日の奥能登豪雨で再び休業を余儀なくされる。

ちゃべちゃべサロン@潮騒レストラン

アーティスト、個の力が広がる

芸術祭の参加アーティストたちもさまざまなかたちで支援してくれた。石川直樹さん、中谷ミチコさん、さわひらきさん、弓指寛治さん、橋本雅也さん、佐藤悠さん、アレクサンドル・ポノマリョフさん、さいはての朗読劇チームなどは、作品やグッズの販売益などを珠洲市の復興プロジェクトに寄付してくれた。ひびのこづえさんは、スズタオルの販売益を原資に被災地支援公演を実施した。そのほか、現地にボランティアで入った作家も大勢いた。村尾かずこさん、弓指寛治さんは、馬緤地区の砂取節まつりの復活にひと役買った。塩田にちなんだこのお祭りは2023年に幕を閉じたが、震災を経て装いを新たに復活した。村尾かずこさんが提案した「さざえキリコ」、「さざえ神輿」が祭りを彩った。馬緤の人たちは震災後しばらく孤立状態が続き、隆起した海岸にあがったサザエを食べて凌いだという。サザエへの感謝の思いから捨てることができずにとっておいた殻が丸ごと使われた。隆起して広がった海岸に太鼓、神輿が出て、集まった人々は火の周りをいつまでも輪になって踊っていた。

また、11月の代官山猿楽祭では、奥能登復興支援のための販売会を開催。芸術祭に参加した59組のアーティストが出品し、売上が復興プロジェクトに寄付された。

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復活した砂取まつり

再び潜る

9月21日の奥能登豪雨は、ようやく復興の途についたころにやってきた。市内全域で被害を受けたが、大谷地区は震災以上の被害を受け、「心が折れた」という声も聞かれた。潮騒レストランも再度の休業を余儀なくされ、支援に入る自衛隊が宿泊場所として利用する日々が続いた。

わたしたちは、活動が振り出しに戻ったような気持ちになったが、大谷地区に通い続け、地域と共有できる時間の幅を1日、1月、1年と少しずつ広げていった。ふたたび人が暮らせる大谷にするには地域外の人々との交流も重要ということで、サポートスズは旅行業の免許を取得した。

また、珠洲の方々と話すなかで、震災後の様子を記録している方が思いのほか多いことがわかった。家の解体が急速に進むなかでまちの風景が変わってしまい、運転しながらも道に迷ってしまうという住民の声も聞かれた。家にあったアルバムや映像が捨てられていることも伝わってきた。「人々の記録を共有することが地域の記憶を呼び起こし、地域の力になるのではないか」と考え、地域アーカイブの拠点「スズレコードセンター」を構想し、準備をはじめた。

さまざまな文脈に呼応するアート

震災から1年以上たち、まちの様子も変わってきた。「バカなことをやりたい。」という声も聞こえるようになってきた。珠洲の常設作品のことも話題になっている。トビアス・レーベルガーの「Something Else is Possible」は現在の珠洲を予見していたのではないか、ラックス・メディア・コレクティブの「うつしみ」は鎮魂を表しているのではないかなど、住民からは常設作品の見え方が変わったという声も寄せられている。これまではレスキュー、避難、ケアが主戦場だったが、これからはなりわいやコミュニティ復興の比重が増すなかで、表現活動の出番も増えると思う。

5月1日、潮騒レストランが7カ月ぶりにオープンし、大谷地区で鯉のぼりフェスティバルが2年ぶりに行われた。スズレコードセンターもオープンした。オープニングイベントでは、珠洲市役所が保管していた昭和の珠洲の写真を用いたイベントに、104名が参加した。今後、市民にも記録に参加してもらい、奥能登の集合知を伝承する場にしたい。
珠洲の復興には地域外からの応援が欠かせない。作品の修復やお祭りなどにアーティストもかかわり、地域外からも参加でき、地域と交流する場を増やしたい。また、震災後の移住者も含めて新しい活動の芽が出ているので、これらの小さなはじまりにも光をあてていきたい。

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スズレコードセンターオープニングイベント「珠洲のアルバムを開く夜」

今後の予定

5月22日(木):展覧会「珠洲のアルバム」@スズレコードセンター 

活動データ

奥能登珠洲ヤッサープロジェクトは、2024年元日の能登半島地震を受け、珠洲を思う人々で立ち上げた有志団体。代表はアートディレクターの北川フラムで、株式会社アートフロントギャラリーと一般社団法人サポートスズが事務局を担当。活動の理念は文化芸術を通じたコミュニティ再建で、活動の柱は奥能登国際芸術祭の作品修繕、文化交流拠点の復活、震災前後の記録の保存と活用、交流ツアーの企画運営。

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