第66回

最近は、世界経済の不透明感や社会の荒波の中で、ややもすると元気のない日本社会が気になります。生活の核となるはずの家族もあまり元気でないのも気になります。日本と日本人に少しでも元気になってもらいたい、元気にならなくては!! と思います。そのために、新国立劇場を含む劇場という場ができることが少しはあるのではないかと思っています。
この頃、家族に関係する事件で心を痛めるニュースに接することが多くなりました。親が子どもを虐待したり、子どもが親を殺してしまったり、子ども同士がいじめで深く傷つけ合ったり…。なぜ、こんなに意思疎通の苦手な人が増えてしまったのでしょうか。
脳科学の本を読むと、ものごとの良し悪しを判断する小脳は7、8歳までに完成し、その後の成長期には喜怒哀楽の感情をコントロールする力が更に培養されると論じています。小さい頃に養われた心のあり方が一生を左右するので、いい情報を入れて幼少期の脳をたくさん刺激するといいというのです。
私は、「劇場は、人を育て、心を豊かにするパワーがある」と思っていて、それを自分で『劇場力』と呼んでいるのですが、特に、小さなときからの劇場体験は、美しいものや素敵な瞬間に感動する心を育むだけでなく、社会的な交わりを経験し、同じ感動を家族・友人や多くの人と共有することによって、コミュニケーション力をアップさせることができると思います。
だから今日は、劇場へ出かけてみませんか。家族そろって劇場で同じ舞台に感動してみてはいかがでしょう。舞台を見た後はいつも、なぜか勇気が湧いてきます。輝いた表情で互いの感想を話しながら足どり軽く劇場を後にする方々が本当に大勢いらっしゃいます。劇場で、目から、耳から、皮膚から、五感を総動員して吸収された『劇場力』は優れもの…ゆっくりと、でも確実に、よい人と元気な社会をつくります。
バレエとの22年
私がバレエと本格的に出会ったのは、牧阿佐美バレエ団で仕事を始めた1988年でした。実は、幼少時に地元のバレエ教室で数年間バレエを習っていたのですが、教師にお子さんが生まれて稽古場が閉鎖となってしまい、私の舞踊キャリアは幼くしてストップ。ですから、今こうして20年以上もバレエとともに歩むことになるとは夢にも思いませんでした。
牧阿佐美バレエ団では、国内での公演をプロデュースするだけでなく、当時のソ連政府から招聘されてサンクト・ペテルブルクとモスクワでバレエ団の海外公演も実施しました。その後、芸術団体制作者を対象とした文化庁の“アートマネージメント在外研修”に女性として初めて派遣され、3か月間にカナダ、英国、フランスなど6か国20バレエ団を訪れました。訪問先では、公演だけではなく、制作、教育、営業広報、支援など各セクションの現場を見てまわりました。また、各劇場のトップからも運営方針や芸術の将来展望を聞く機会を得て、大変充実した日々を終えて帰国しました。
バレエは総合芸術 ~300余名のチームプレーが『劇場力』を生む~
新国立劇場バレエ団の立ち上げには1996年から加わりました。バレエ舞台を創るためには、芸術監督やダンサーなどのバレエ団スタッフが一つの劇場を本拠に、長期にわたり継続的に公演を創り出すことが重要と言われています。その中でバレエ団のスタイルが統一され、団体のオリジナリティーを生み出していくのです。日本の多くの方々がこうした劇場の誕生を待ち望んでいましたので、新国立劇場の開場はその端緒を開くものと注目を浴びました。欧米ではこのような過程を経て劇場がバレエ舞台を創り出すことは普通のことですが、日本では初めての試みだったのです。
劇場では、芸術監督のもとで将来を構想しながらシーズンプログラムを立て、バレエ団の組織づくりや年間リハーサルを計画、スケジュールに基づき各公演を実施します。一つの舞台を完成するには、主役から若手まで80名近いダンサーや、国内外の芸術家、振付家、美術家、リハーサル教師、指揮者、オーケストラに加え、舞台を裏から支える舞台監督、照明、大道具、衣装や靴、カツラ等のスタッフまで、300余名が力を合わせます。
社会がよい劇場を持つことは、例えるなら、ヴァイオリニストが名器ストラディバリウスを持つことと似ているでしょうか。名器は名演奏と相乗効果を引き起こしますが、名劇場は、演者や創り手にとってはお客様の感動が響き、演じて心地よい場となり、見る側にとっては舞台上の演者の心を感じる空気が流れ、舞台と観客席の共鳴を体感する場となるのです。そこには、『劇場力』のマグマがプツプツと湧き出すのですが、芸術のシャワーを全身で浴びているような気持ちになります!
次世代プロジェクトは、社会の生命線 ~「こどものためのバレエ劇場」や「中学生のためのバレエ」~
次世代育成プロジェクトは、劇場にとっても社会にとっても生命線といえる大切な企画。新国立劇場では、シーズンプログラムとして上演する公演とは別に、青少年向けの特別なバレエ公演を劇場内外で実施しています。
例えば、東京初台の本拠地で上演する場合は、学生対象に公演当日のチケットが全席半額となる「アカデミックプラン」があります。企業支援を得て全幕バレエを廉価で提供する「中学生のためのバレエ」や「中高短大向け学生団体優待」で年間を通じて中高学校や短大・大学団体への働きかけもおこなっています。本拠地以外の全国の皆様に新国立劇場の作品をお届けするために、全国公演担当セクションを設けて各種プランのご提案をしたり、問い合わせに対応もしています。
また、2009年には「こどものためのバレエ劇場」を開始しました。いままで劇場でバレエを見たことがない子どもたちが、両親家族とともにバレエの楽しさを分かち合う機会として企画され、初めてバレエをご覧になる方々への抵抗感を少なくするために、少しだけナレーションやセリフも入れてあります。
昨年4月の第一弾「しらゆき姫」は爆発的なヒットとなりました。
公演当日は、劇場正面玄関からロビー、劇場内の座席に子どもたちの笑顔と熱気があふれます。楽しげに話すエネルギーに圧倒されますが、幕が開くと一転、客席は静まり返りキラキラとした目が舞台を注視するのです。子どもは素直な心で芸術の核心をストレートに理解しますから本当の劇場芸術にこそ子どもの頃から触れるべきなのだろう、と改めて感じ入りました。感覚のよさは大人以上かもしれません。
寄せられた子どもたちの声の一部をご紹介しましょう・・・
- 「気持ちは言葉で表現するもののはずなのに、バレエはなんでその一番大切なものがないのか不思議だった。でも、バレエを見たら、踊りだけで物語がわかる。いま、あの人はこんな気持ちなんだ! と想像できた」
- 「大勢でやる演技や踊りの時に誰ひとりとしてずれがない。たくさん練習をしているに違いない。いや、練習だけでは決してないと思うほどのチームワークには、驚きを超えて不思議な気持ちになった。すごいスピードで踊っても誰ひとりとしてズレなくて、ピタッと止まるところではピクリとも動かない。踊っている人たちの一生懸命さと根性が見て取れた」
- 「一つ一つの演技は、人間がやっているとは思えないくらい綺麗だ。ダンサーの体はなんであんなに柔らかいのか? 体に骨が入っていない? と思うほど。どんな練習をすればあんな風になれるのか? すばらしい舞台の裏にはすごい努力があるに違いない!」
2010年夏の「こどものためのバレエ劇場」では、大好評だった「しらゆき姫」を再演します。まず、新国立劇場(7月23~25日)で上演した後、新潟県民会館(8月4日)を皮切りに、見附市文化ホール(8月6日)、兵庫県立芸術文化センター(8月14日)、サンポ―トホール高松(8月22日)、和光市民文化センター(8月26日)、茅ヶ崎市民文化会館(8月28日)、厚木市文化会館(8月30日)まで、全国7か所の会館で上演が予定されています。会館によっては、バレエダンサーによるワークショップを同時開催したり、バレエについて楽しい映像を見ていただけるところもあります。
世界も認める新国立劇場のバレエ、ボリショイ劇場で「椿姫」を上演
最後に、新国立劇場バレエ団の最近のトピックスをいくつかご紹介します。
新国立劇場バレエ団は、近年、遠く沖縄や北海道からも公演を見るためにお客様が駆けつけてくださるまでになりました。また、日本各地での公演だけではなく、米国やロシアなど各国から招待されて海外公演も行っています。
2008年2月ワシントン・ケネディーセンターへの初海外公演につづき、2009年9月にはロシアから招待されて総勢約100名がモスクワに渡り、バレエのメッカといわれるボリショイ劇場で公演しました。日露文化交流事業としてモスクワで上演した演目は、新国立劇場が独自に創った作品「牧阿佐美の椿姫」でしたが、スタイリッシュできめ細やかな舞台と群舞の秀逸さが目の肥えたモスクワっ子に大好評を博したのです。ロビーでは、ロシア人の観客から次々と声をかけられました。「日本人のスタイルがこんなにいいとは知らなかった」「着物を着て日本風な踊りをするのかと思ったが、スラリと背の高い女性がドレスを着こなしていて、美しい!」「想像していた日本のバレエ団とは大違い。また来てほしい」と。新国立劇場は世界の有数劇場と肩を並べる作品を日本人の個性を発揮してお見せすることをめざしていますので、“世界レベルで日本人ならではの個性とすばらしさを見せた”と評されたことは、日本の劇場が創る舞台の可能性を示せた意味からも、また、日本の若きダンサーたちが世界に挑戦した点からも、今後のさらなる発展につながるものだったと思います。
2010/2011シーズンからビントレー新体制始動。『劇場力』を進化し続けたい!
さて、創立13年目の2010年秋からは、これまで11年間バレエ団を統括してきた牧阿佐美芸術監督から引き継いで、英国人のデヴィッド・ビントレー氏が舞踊芸術監督に就任します。新監督も、新国立劇場が愛される劇場として常に進化し、皆さんを元気にする『劇場力』を発揮しつづけたいと願っています。
世界で活躍する新監督の元で、劇場とバレエ団が開く新たなページがどんなものとなるのか、ご期待いただけたらと思います。
2010/2011シーズンに公演予定の舞台写真をご紹介します!
ご家族そろってご覧いただきたい名作です。(撮影:瀬戸秀美)
世界中で一番豪華で完成度が高い! とビントレー次期監督が折り紙をつけた牧阿佐美版。インドの舞姫の悲しい恋の物語。(撮影:瀬戸秀美)
「テイク・ファイブ」(photo by Bill Cooper)
ゴールデンウィークは家族そろって楽しんでいただける冒険物語「アラジン」を。ビントレー次期監督が新国立劇場に世界初演した舞台です。(撮影:瀬戸秀美)
シェイクスピアの悲劇がバレエに! (撮影:瀬戸秀美)
(2010年5月26日)






