アートマネジメント事始め

海外事情と日本の課題

アートのリスク・マネジメントとアートマネジメント

 アートのリスク・マネジメントは、欧米の美術館を中心に長期にわたる積み重ねで永々と築かれてきました。その歴史と伝統を体系的に整理したのがアートマネジメントといえます。

 企画展で美術品が国家間を移動することが多くなり、そのリスクを減少させるための方策がアートマネジメントとして確立されました。現代では、アメリカのワシントン・ナショナルギャラリーとイギリスのテート・ギャラリーが共同で、美術品の扱い方の国際基準を設け、「Art in Transit」という輸送・展示のためのマニュアルを整備しました。

 海外の美術館では、企画展の作品の貸出にあたり、レジストラー(Registrar:作品の輸送手配・管理担当者)が中心になって作品の「コンディション・レポート」(Condition Report:作品の貸出し側が作品の健康状況を記録した書類でこの調書をもとに作品の開梱・展示の都度現状との差異を確認)、「ファシリティ・レポート」(Facility Report:美術館の防犯・防火・耐震性といった建物に関する健康状況を記録した書類で貸出し側に提出)、輸送計画、経路、クーリエ(Courier:美術品の中でも重要作品の海外・国内輸送に同乗し作品の安全を確保する役目を担う人)等のデータを吟味し貸出の判断をしています。一例を挙げると、館長が作品の貸出を了承しても、修復家が作品の状態が悪く貸し出しはできないことをレジストラーに報告した場合、レジストラーから館長に「貸し出しNo」という提言がなされ、結果として貸し出しがダメになることもあります。

 アメリカでは、損害保険に変わるリスク・ファイナンスの手段として国家補償制度が1975年に創設され、今日にいたるまで美術館の間で大事に育てられ、いまや1000億円を超える企画展が年間に何本も開催されています。当初は小さな補償制度でしたが、事故を起こさないために最善の努力・費用をかけて育てた結果、過去に国家補償制度で支払ったのは2件で10万ドルという内容で推移できています。9.11テロの際にもアメリカはターゲットとされ、テロリスクの引き受けができないなか、国家補償制度では東海岸の大規模企画展にカバーを提供した実績があります。この組織は2名の事務局職員が十数名の評議員を年2回ワシントンに集めて会議を開催するため年間10万ドルの費用で運営されています。先駆者であり、かつ事故のない運営をおこなっている優れた制度です。

 このように小さく作って大きく育てることが、制度を長く続けるためのこつではないでしょうか?

日本のアートのリスク・マネジメントにおける課題

 最後に、現在の日本のアート分野が抱えるリスク・マネジメントの課題をいくつか考えてみましょう。
 まず、国内でのアート活動について契約書が作成されないケースが多々あることです。結果として、事件事故が発生しても十分な補償がされずうやむやとなってしまう原因です。

 上演系のアートでは、契約書がないために、スタッフ等が下請けだったりすると責任関係がはっきりせず、労災にも加入できていないため、事故が起きても泣き寝入りするということが発生しています。テレビ業界は2009年から、下請けに対するいじめ是正のため、着手金を前払いし契約書を交わすことを義務化しました。こうした動きがリスク・マネジメントの改善につながっていくのです。

 展示系では、日本では作品を借用して展覧会を開催する場合、「責任をもってお借りします」という「借用依頼書」のみで、借用先に対して「借用契約書」を作成しないことが多くあります。しかし例えば、契約書がないために、借用依頼書だけで作品の評価額を相手に聞くのは失礼になるという遠慮から評価額を聞かずにいた場合などは、事故が発生してから評価額を貸出先と確定するのはなおさら困難がともないます。

 次に、私は「指定管理者制度」を美術館博物館という財産を預かっている施設についてまで適用するのは問題があると考えています。日本の美術館は仕事をアウトソーシングして成り立っていますので、指定管理者制度でさらにコスト削減をめざすことはリスクを生む危険性があります。すべての美術館を満足できる形にしようとするならば、狭い国土にあり余る数ほど存在している美術館のなかから選別していかざるを得ません。

 また、美術品は長期の保存状態によってはすでに瑕疵(かし)があるのは事実であり、その状況を記録したコンディション・レポートの作成が必要です。しかし、日本国内に所在する作品にコンディション・レポートを作成できる修復家のいる所蔵先が少ないというのが現実です。展示場所のファシリティ・レポートを借用先が提示することもないため、現在全国美術館会議の保存修復部会が中心となってコンディション・レポートの標準フォームが検討されています。欧米先進国では事故防止のキーポイントとなるコンディション・レポートですが、日本でコンディション・レポートを作成できる修復家がいる美術館は十数館と、ごくわずかです。日本ではまだそうした人材が少ないため、十分に普及していない状況があります。

 最後は美術品の国家補償制度の件です。2009年3月から文化庁が中心となって借用美術品に対する国家補償制度の実現に向け、協力者会議を立ち上げ検討をしています。政権交代でその検討は遅れていましたが、現在その実現に向け着実に動きつつあります。この制度は先にも述べたとおりアメリカで1975年に確立されましたが、現在、先進国G7の中でこの制度を持たないのは、わが国とロシアだけです。「バーンズ・コレクション展」(国立西洋美術館、1994年)は皆さんの記憶に残っているものと思いますが、フランスとイタリアでは、同展が巡回した際に美術品の国家補償制度を創設した経緯があります。日本でも1995年に文化庁が中心になって国家補償制度を検討したことがありました。

 リスク・マネジメントをさらに向上させる施策と国家補償制度が車の両輪として機能する制度を今度こそ実現させたいと考えています。安全性を上げれば事故による支払いは滅多に起こることがなく、運営経費もアメリカ並みに抑えることができれば、少ない費用で効果が大きい成果を得られることをアメリカが示しています。私も協力者会議のメンバーとして最後まで気を抜くことなく、法案が国会を通り、美術展の国家補償制度が実現され、さらにその後も事故のない制度として継続できるよう協力していきたいと考えています。

(2010年8月15日)

 

プロフィール


箱守 栄一
(はこもり えいいち)
美術品リスク・コンサルタント

1948年、東京に生まれる。70年立教大学経済学部卒後、東京海上火災保険(株)入社。同社にて主に美術展の保険引き受けに約30年関わり2001年三菱系企業の関連会社に保険部門の責任者として出向転籍。08年同社退職後美術品リスク・コンサルタントに転身。91年4月に慶應義塾大学文学部に開講された「アートマネジメント講座」にて毎年アートのリスク・マネジメントについて講演。2005年慶応義塾大学大学院アート・マネジメント分野にてアートのリスク・マネジメントを非常勤講師として担当。2009年3月から文化庁の国家補償制度検討協力者会議委員とそのワーキンググループ座長に就任。現在実現に向け取り組み中。保険会社の目から見たリスク・コントロールを研究し、機会があれば現場に足を運びマネジメントの実際を見聞し研究している。事故の現場には次の事故を防止するヒントが必ずあり、阪神・淡路大震災の際にはボランティアとして文化庁の文化財レスキューにも参加。日本の美術展国家補償制度の創設をライフワークとして取り組む。アートのリスク・マネジメントを主な研究テーマとして取り組む。

ネットTAM アンケート

アンケートにご回答いただいた方の中から抽選で10名様にプレゼントを差し上げます。

2004年10月に開始した「ネットTAM」は、アートマネジメント総合情報サイトとして、
おかげさまでアートの現場を始め幅広い方々にご活用いただいております。

よりよいサイトづくりの貴重な手がかりとしたく、ぜひ多くのご意見・ご要望等をお寄せください。

*ご回答いただいた内容は統計に使用し個人の回答内容が特定される形では公表いたしません。また個人情報はネットTAM運営事務局で厳重に管理し、第三者に提供することはありません。

「アンケートへ進む」をクリックすると、新しいウィンドウが開きます。