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極私的「全国アートNPOフォーラム in 東北」レポート



 2012年の10月から、北海道の浦河(うらかわ)町という人口1万4000人のまちで暮らし始めました。大学から18年東京で暮らし、その後も札幌に住んでいた私にとっては、成人してから初めての都市ではない、小さなまちでの生活。人口のわりに充実した図書館、存在がほとんど奇跡といえるミニシアターはあるけれど、都市のように、たくさんある公演や展覧会やコンサートからどれかを選んで観たり聴いたりするような環境にはないし、アーティストによるワークショップもなければ、もちろん専業のアーティストもほとんどいません。ただ、まちの人々が育んできた、地域に根づいた文化の存在を確かに感じます。仕事は、食を通じて地域をつなぐことを目的とした、まちづくり団体の研修生。食にまつわる現場に足を運び、人々の話を聴き、それらを発信するということをしています。
 太平洋に面したこのまちも、東日本大震災で被害を受けました。船を沖合に避難させるため、漁師さんたちが港に停めた車の多くが、流されてしまったといいます。そして、浦河沖は地震の多い場所でもあります。

 このまちに暮らしはじめて、被災地との向き合い方が少し変わったような気がします。支えるという向き合い方から、支えつつ学ばせてもらう、という向き合い方へ。その時に生まれた問いは、もともと地方が抱えていた困難に、この震災と津波、そして原発事故が重なったとき、人々が明日を生きるために、必要としたアートとは何だったのか、というものでした。

 2013年1月26~28日に仙台にて開催された「全国アートNPOフォーラム in 東北」の3日間で知ることができた、東北におけるさまざまな試みの報告から見えてきた光景は、どれも印象深く、また、いろいろな思考を促されるものでした。


 「汚いものばかり見てると、心が病んでくるんですよね。でもある日、冠水したままの道路に、津波で壊された家屋が映り込んでいて、きれいだなと思ったんです。救われました」。震災の記録写真を撮るために、毎日、津波で破壊され、火災で焼き尽くされ、ヘドロの溜まったまちを歩き続けていたという、気仙沼市の「リアスアーク美術館」学芸員の山内宏泰さんの声は、とても心に響きました。対話なく一方的に持ち込まれるアートに対しては痛烈に批判しながら、山内さんは「この場所で美しさを見つけることを支えてほしい」といいました。最悪と思われる状況の中にも、価値を見い出すことのできる助けは、やはり切実に必要とされているのだと思いました。

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画面右端が「リアスアーク美術館」の山内さん。

 山内さんは、もう一つ、こんなエピソードも話してくれました。阪神淡路大震災の後、小学生を対象に「ダンボールハウス」のワークショップを開催したそうです。自分たちでダンボールハウスをつくり、そこで一夜を明かすというもの。そのとき参加した小学生が、建築を学ぶ大学生になり、東日本大震災の後、山内さんを訪ねて来たというのです。「避難所にダンボールのパーティションをつくりたいんです」といって。震災で自宅も流され、美術館に避難していた山内さんは、その彼の存在に救われた、といいました。人を育てることの可能性をあらためて感じさせられました。

 「大きな支援ではこぼれ落ちるものを支えるのが役割でした」といったのは、地域に根づいた活動に少額の支援を行ってきた「アーツエイド東北」事務局長の小川直人さんでした。こぼれ落ちるものの例として挙げられたのは、地域コミュニティーで行われてきた普通のお祭り、地元の人がコツコツと続けていたミニコミ誌発行のような活動、あるいはヒップホップなどのユースカルチャーなど。震災後、地域に根づいた文化活動の重要さを認識したといいます。平常時には、手弁当で継続できていた文化活動が、非常時には継続が困難になってしまう。それらの活動に対し、相談にのる、ということも含めて、支えてきたそうです。今後の支援のあり方を問われた小川さんが「最終的には、引越の手伝いみたいな感じになればいいと思っているんです」といった、その言葉にはとても共感しました。地域の文化というのは、その地域の文化の生態系の中で育まれるもの。非常時の支援は必要だけれど、やがては、その地域で自立していける形に落ち着いてこそ、地域の文化といえると思うのです。なので、小川さんの言った、支援は「支え合い」のレベルであるべきという言葉は非常に納得のいくものでした。

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「アーツエイド東北」の小川さん。お子さんと一緒に登壇。

 モデレーターの應典院寺町倶楽部山口洋典さんが「子どもたちが表現することを支えたことで、今度は子どもたちがまちの人を支えることになった」とまとめたのは、トヨタ自動車の「ココロハコブプロジェクト」の中の「未来を歌に」プロジェクト。南三陸町の小学校で子どもたちが震災後の1年を振り返り、歌をつくり、まちの追悼式で歌うというもの。子どもたちの力強い歌声は、映像を通しても十分、心を揺さぶられるものでした。関係者の方々にとっては、本当に勇気のいるプロジェクトだっただろう、と思いました。子どもたち自身が自らの言葉でこの震災を越えていく希望を表現することは、必ずや子どもたちの力になり、また大人たちにも力を与えるだろうということに納得はしつつも、先生たちは不安だったと思います。しかし、やってみよう、と決めたその勇気は、支援先やコーディネーターという外の人々とのつながりが支えたのではないか、と想像するのです。

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「未来を歌に」プロジェクトの現地コーディネーターの吉本さん。フロアから現場でのエピソードを。

 岩手県大槌町で立ち上げられた、芸術文化・コミュニティデザインの手法を活用し、未来のまちを担う人材を育てる「ひょっこりひょうたん塾」。事務局長である元持幸子さんから、実践プログラムとして、アーティストのきむらとしろうじんじんさんの「野点」を行った際のお話がありました。どこで「野点」を行うか、場所を決めるために、「散歩会」と称して、みんなでまちの中を歩いたそうです。津波と火災により、中心市街地は、ほぼ壊滅したという大槌町。震災の後、一人ではなかなか足を向ける気持ちになれなかった場所にも、足を運ぶことになったといいます。また、実際に「野点」が行われると、まちの人々は自然と椅子を持って来て集い、自ら「場を開く」ということが起こり始めたそうです。現実に向き合うこと、震災について言葉にすること、集う場をつくること。おそらくまちの人々の中に隠れていた思いが、まちの人にとっては非日常である「野点」という試みに触発されて、表に現われたのではないかと思いました。

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「ひょっこりひょうたん塾」の元持さん。フォーラム・ディスカッションにて。

 震災直後「アーティストにできることは何か」という真摯な問いを抱えて集まった、アーティストたちが、文化芸術に関する、人、まち、場の再生を図る暫定プラットフォームとして立ち上げた「アート・リバイバル・コネクション東北(ARC>T)」。事務局長の鈴木拓さんは活動初期のことをこう語りました。「避難所の人たちから、慰問の人たちが一度来たら終わりで、二度と来ないのが寂しいという言葉を聴いたことから、自分たちで新しい作品をつくって巡回公演をしようとアイデアは自然と消えていきました」。結果、ARC>Tは、コーディネーターがまちで見つけてきたニーズからアーティストとともにプログラムをつくっていく、「出前」活動をすることになったそうです。その中で実施された「高齢者とアーティストの学び合い」事業。6か月間、高齢者施設で利用者や施設スタッフと対話をしながらつくりあげていった作品は、高齢者に限らず、多様な観客に通用するクオリティになっていったといいます。この震災がきっかけとなって、社会との接点を持ち始めたことが、アーティストたちの力にもなっていったということでしょう。

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「アート・リバイバル・コネクション東北」の鈴木さん。

 「話しきれない現実の中で、皆で話せる、一つのことがあったというの幸せ」とモデレーターの吉川由美さんが表現したのがいわき市で2年に1度開催される「いわきぼうけん映画祭」。実行委員長の増田伸夫さんが中心となって、第1回を開催した一か月後に、震災と原発事故が起こりました。震災後、増田さんが「2回目は、もう無理かも知れない」とTwitterで弱音をはいたときに、「何のための『ぼうけん』なんですか。こんなときこそ、未来の目標が必要なんじゃないですか」と激励してくれた、サポートメンバーがいたことで、2回目を実施する覚悟ができたといいます。増田さんたちにとっては、「いわきぼうけん映画祭」そのものが表現なのだと思いました。この映画祭を変わらず続けていくことによって、日常を自分たちの手に取り戻すことを、求めたのだろうと思います。

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「いわきぼうけん映画祭」の増田さん。1日目の打ち上げ会場にて。

 「1秒でも2秒でもそこに幸せな時間が生まれるんですよ」といったのは、宮城県女川町で活動する対話工房の岡裕彦さんでした。対話工房は「日常を失ってしまった人々に表現と対話の場を共に作り出す」ことを目指して建築家・アーティスト・メディアクリエーター、そして岡さんをはじめとする女川の人々によってつくられました。対話をしながらともにつくりあげたコミュニティーカフェ「おちゃっこクラブ」では、人々が集い、なにげない会話から新しいことが生まれていく、ということが起こっているといいます。津波で流されてしまった、岡さんのカフェによって、担われてきた機能が、新しい形で戻ってきているのでしょう。狭い仮設住宅で大家族が暮らすという日常。その中で、子どもたちに、未来への希望を感じさせてあげることは、本当に難しいと、岡さんは言います。みなでつくりあげていった場で、ひととき向かい合って座り、話ながら同じものをつくり、笑い合う、その一瞬は本当にかけがえのない、まさに「人間性を回復するため」の時間なのだと思いました。

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「対話工房」の岡さん(画面左)。メンバーの海子さん(画面右)とともに、対話スタイルで。

 「人々が明日を生きるために、必要としたアートとは何だったのだろう」という問いを持ちながら、参加したフォーラムで、個人的に心に残ったいくつかのエピソードを書き連ねました。もっと整理してまとめられたらよかったのかも知れませんが、難しかったです。実際、そのエピソードが心に響いた理由を、うまく説明できないもどかしさを感じるものもありました。

 ただ、これらのエピソードを、私はこれから何度も思い出すだろうと思います。私にとっては、ここから学ぶべきものが、まだまだたくさんある気がするのです。

(2013年3月8日)



関連リンク

ネットTAMメモ

 計り知れない震災の被害と向き合い続けている東北に、実際に足を運び、自分の目で見て、現場の話を直接聞いてもらい、語り合えたら――東北でふんばってきたアート関係者の、そうした思いが込められた「全国アートNPOフォーラム in 東北」は、北海道から沖縄まで全国からのべ200名が参加。雪降る仙台で「東北で、しあわせを考える」をテーマに、見て聞いて語りあいました。
 東日本大震災の発生から2年。この間、東北で人々は何を思い、人々は東北をどのように思い、アートはどうあったのか。生きていくこと、幸せの本質とは。フォーラムが拾い上げ、光をあてようと試みたことは、今後の復興においても常に心にとめおきたいものです。それらを、記録として残し本コラムから発信することを託した宮浦宜子さんは、アートNPOフォーラムを主催するNPO法人アートNPOリンクの理事であり、リンクが震災後に取り組むプロジェクト「アートNPOエイド」の推進メンバー。人々の日々の営みを細やかに見つめる浦河町住まいの新たな視座で、心にとめおきたいフォーラム参加者の言葉を、丁寧にすくいあげてくださいました。
 もう2年、まだ2年。ずっと考え続け、東北とともにアクションを起こし続けましょう。

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