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教育版画運動が蒔いた種

青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒(指導:坂本小九郎)『虹の上をとぶ船・総集編(2)』より《天馬と牛と鳥が夜空をかけていく》1976年、木版、五所川原市教育委員会蔵(写真提供:青森県立美術館)

「子どものころ、版画をつくったことはありますか?」

筆者が企画した「彫刻刀で刻む戦後日本 2つの民衆版画運動」展(町田市立国際版画美術館、2022年4月23日〜7月3日)は、こんな問いかけから始まる展覧会だった。

日本の多くの学校で版画を学ぶのは、版画を普及した戦後の文化運動と深いかかわりがある。1947年から日本で本格的に紹介された、魯迅による中国の木刻(木版画)運動のインパクトが源流となり、そこから2つの民衆版画運動、「戦後版画運動」と「教育版画運動」がおこった。特に後者の影響で、1961年から施行された学習指導要領では小学校全学年で版画をつくることが推奨されるようになり、日本中の子どもたちが版画をつくるようになった。本展は約400点におよぶ作品と資料を通して、この2つの版画運動を連続した動きとして捉えた初めての展覧会だった。さらにこの連続性から戦後日本のリアリズム美術の水脈をたどることを試みた。

戦後の教育実践から学ぶ

美術館では展覧会をより広く伝えるため、教育普及やラーニングプログラムを組むことは近年一般的になっている。しかし展示内容自体に美術史だけでなく、美術教育史も射程に入れることは多くない。本稿ではリレーコラムのテーマに即して、本展の後半で扱った「教育版画運動」について紹介する。さらにその流れにあって青森県八戸市で中学校教員として長年版画を指導し続けた、坂本小九郎の活動にも触れていく。

これまでのコラムでは執筆者自身の経験から書かれたリレーが続いた。筆者の番では過去の事例を紹介し、そこから現代におけるアートと教育の可能性について考える一助となれば幸いである。

教育版画運動とは

「教育版画運動」とは、1951年に大田耕士が中心となって設立した「日本教育版画協会」が中心となっておこなった「民間教育運動」のことだ。民間教育運動とは、学習指導要領に沿った教育内容ではない、オルタナティブな教育方針を広めようとした動きである。現場の教員がユニークな実践を行い、研究会や機関誌でそれらを共有することで、カリキュラムを考案していった。戦後民主主義にふさわしい教育を模索する1950年代から盛んになり、美術教育の分野では「日本教育版画協会」に加え、「創造美育協会」、「新しい絵(画)の会」など複数のグループが活動していた。

初期の教育版画運動が目指した方向性は、現在イメージするような造形表現を主体とした「美術教育」とは異なっている。この運動が始まったきっかけの一つに、「生活綴り方(作文教育)」があるからだ。

「生活綴り方」は「生活を見つめて文章で表現することで、社会や現実を認識する力を鍛える」というリアリズムによって立つ教育実践である。1951年に山形県山元村の山元中学校で新任教員だった無着成恭が、自身の生活綴り方の実践をまとめた書籍『山びこ学校』(青銅社)を出す。すると山あいの中学校で行われていた先進的な教育が大きな注目を集め、本はベストセラーになり、映画化もされヒットした。この背景には戦後民主主義下の新しい教育を模索していた当時の人々の教育に対する熱い思いがあった。戦前からあった生活綴り方教育を引き継いで行われた無着の実践は、民主主義を求めながらも急速にアメリカ化していく当時のカリキュラムに対する違和感を持った人々の心にこたえるものだった。また、無着の学級で作文だけでなく版画も文集に加えるようになると、その実践も雑誌で取り上げられて大きな影響を与えた。

大田耕士は戦前に小学校教員として版画を指導したころの経験から、版画制作を通じた「人づくり」に可能性を感じていた。それまで戦後版画運動を進める「日本版画運動協会」のメンバーとして労働者に対して版画を広めようとしていたが、山びこ学校の刺激を受けて、学校教育のなかに版画を広めることに活動をシフトしていく。

大田耕士『版画の教室―生活版画の手引き―』(青銅社、1952年)
大田が版画教育について初めて書いた書籍

大田は教育版画運動の初期に「生活版画は生活綴り方の弟」というフレーズをよく使った。子どもたちの詩や作文が刻まれたガリ版刷りの学級文集の中に木版画が取り入れられると、両者は相思相愛の関係として発展していく。多くの小学校では図工の専科教員がいないため、担任の教師が作文と版画づくりの両方を教えた。そこに社会科など他の教科も加わり、学級文集・版画文集をつくること自体が、教科にまたがる総合的な学びとなっていった。教室は生徒と先生がガリ版と版画を刷る小さな印刷所にもなり、冊子をひとり一冊ずつ手にすることができた。版画が綴じ込まれた文集は、教師と子ども、また子ども同士のコミュニケーションを媒介するミニメディアとしての役割も果たしたのである。

展覧会では大田旧蔵品から全国の文集・版画文集・版画集を展示した

大田は版画制作を通じた「人づくり」を広めるため、機関誌や全国での講習会で版画を指導。教えを求める手紙にていねいにこたえ、地方で孤独に実践を続ける者には激励の言葉をかけた。こうした交流のなかで、作文と版画で生活を綴ることから出発して、ユニークな活動をした先生が数多く生まれていった。その一人が青森県八戸市各地の中学校で版画を教えた坂本小九郎だった。本稿の後半では2022年6月に行った坂本へのインタビューと著書(『虹の上をとぶ船 八戸市立湊中学 養護学級の版画教育実践』あゆみ出版、1982年/『版画は風のなかを飛ぶ種子』筑摩書房、1985年)、そして坂本の実践に着想を得たファンタジー作品『うみねこの空』(作:いぬいとみこ・版画:はまなすの会、理論社、1965年)を参考に、坂本の活動を紹介する。

坂本小九郎と『虹の上をとぶ船』

坂本は1934年に秋田県の小坂鉱山の近くで生まれ、1956年から青森県八戸市各地の中学校で美術教員として版画の指導をし、1980年から94年まで宮城教育大学で教鞭をとった。八戸市立湊中学校の養護学級でつくられた『虹の上をとぶ船』シリーズを指導したことで知られる。

青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒(指導:坂本小九郎)『虹の上をとぶ船・総集編』(1)・(2)展示風景
1975年・1976年、木版、五所川原市教育委員会蔵

『虹の上をとぶ船』は、養護学級の歴代の子どもたちが、前の代がつくり上げたイメージや物語を受け継ぎながら共同制作を行ったシリーズだ。船やイカ、ウミネコなど港町・八戸の生活に密着したモチーフに加え、空飛ぶ船やペガサスなどファンタジー上のモチーフがいきいきと描かれている。「人間が戦争や公害で自然界の調和を乱すが、人智を超えた自然の豊さに包み込まれていく」という、坂本と生徒でつくり上げた宇宙観、生命観が反映されている。濃密なイメージと世界観ができ上がったのは、坂本が美術だけでなく理科、社会なども教えていたことも反映している。

坂本は1950年代は中国木刻の影響や生活リアリズムに基づく版画教育を行っていたが、次第にそれに留まらない視点を生徒とともに追求していくようになる。湊中学校では障害児の特性に合わせて作品に参加する共同制作を指導し、子どもたちのイメージのリレーでできた「現代の民話」ともいうべき本作のファンタジー性は、当時から多くの人々の心を打った。なお、この作品は宮崎駿監督映画「魔女の宅急便」の劇中画にインスピレーションを与えた。大田耕士は宮崎の岳父で、その縁でこの作品を知る機会があったからだ。

原点にある戦争体験

坂本小九郎氏(2022年6月、盛岡)

2022年6月にご協力いただいたインタビューのなかで繰り返し語られたのは、坂本や大田の原点にある戦争体験だった。また坂本の弱者に対するあたたかなまなざしも印象的だった。

坂本は幼少期、家族の事情や戦争の影響で秋田、横浜、そしてまた秋田に住んだ。1941年の国民学校1年時に横浜の鶴見に引っ越し、そこで焼夷弾が落ちてみた火事が忘れられず、そのイメージは頭にずっと残っているという。

3年生のときに学童疎開が本格化すると、母が住む秋田の小坂鉱山に戻る。そこでは強制的に働かされていた中国人や朝鮮人を目にすることが多かった。母親から彼らを差別してはいけないといわれたことは、強く心に残っているという。

また横浜から秋田に移ったことで言葉の違いをからかわれたり、疎開者として扱われたりして孤立感を味わったこと、軍国主義時代の集団行動に馴染めなかったことなどが、訥々と語られた。

盛岡短期大学美術工芸科を卒業後、1956年に21歳で青森県八戸市の鮫中学校に赴任。初日は学生服を着たまま教壇に立ち、生徒と「友達のような関係」になったという。八戸と近い五戸町立石沢小学校の校長で、版画教育に熱心だった江渡益太郎が鮫中学校に頻繁に訪れていたこときっかけとなり、版画教育に取り組んだ。江渡が開いた講習会で大田耕士と出会い、大田耕士を慕って日本教育版画協会に参加していく。

大田を父のように尊敬し、頻繁に八戸から東京にある大田の自宅に通った。よく話したのは中国木刻のことや、大田が出征して中国に行った軍隊時代の思い出だった。戦争が一人ひとりの心に残した傷跡、悲しみについて深く話し合ったという。

「版画は風のなかを飛ぶ種子」という大田の言葉は、坂本を生涯支えてきた。どんな荒れ野でもたんぽぽの種が芽吹くと、まっ黄色の花が広がるように、版画づくりを通して人と人が温かく結びつくことを信じた。大田や坂本はこの言葉を、中国の木刻運動とも重ねていた。魯迅と志を同じくした青年たちは木刻運動を通して版画を通じて人の心を解放し、新しい国をつくろうとしたと捉え、坂本はそれに共感した。

大田は「世の中を平和にするために何枚も刷れる版画が大切だ」とも伝えたという。『虹の上をとぶ船』総集編(1)、(2)は複数存在するため、町田市立国際版画美術館で展示していたのと同時期に、八戸市美術館でも同じ作品が偶然展示された。こうした版画の複数性がもたらすセレンディピティを坂本はことのほか喜んでくれた。

話題は2022年2月から始まったウクライナでの戦争について心を痛めていることにも広がった。坂本は戦争や争いとは「人と人をバラバラにするもの」だという。そのため1960年代から激化する「受験戦争」は、競争によって子どもたちが分断されるものだと疑問を呈してきた。

いぬいとみこ作 版画/はななすの会 『うみねこの空』(理論社、1965年)

『うみねこの空』(理論社、1965年)は坂本が指導した鮫中学校版画クラブでの実践をもとに、児童文学者いぬいとみこが物語を紡いだ本だ。表紙や挿絵に使われた版画は、鮫中学校の版画クラブのOBOGが集まる「はまなすの会」が制作した。いぬいは坂本の実践に感銘を受け、数年にわたって八戸を訪ね、坂本と版画クラブを取材。「受験戦争」や家庭環境に翻弄される中学生たちと、近くの繁殖地に棲むウミネコたちが主人公のファンタジーをつくり上げた。

当時は中学生が進学組/就職組に分断され、進学を目指す子どもは高校受験のため競争させられることに対する疑問が、社会的に高まっていた。加えて1956年から始まった「全国中学校一斉学力調査(通称「学テ」)」の結果を学校の評価と捉えた大人は、子どもたちに大きなプレッシャーを与えた。一方で卒業後は就職したり家業を継いだりする子どもは、家族のなかですでに重要な働き手である場合が多かった。こうした社会状況から、社会に対する問題意識を育て、民主的な運営を心がけた版画クラブの活動が「偏向教育」とされ、校内や家庭で歓迎されないことが少なくなかったという。

八戸にはウミネコの繁殖地として有名な蕪島(かぶしま)という島があり、坂本(作中では田中)は版画クラブの子どもたちにウミネコの姿を観察、スケッチすることを薦めた。このことを通して、空飛ぶウミネコの目線から自分たちの暮らしを見ること、そして互いに協力し合って暮らすウミネコから生と死を知ることに繋がっていった。

物語のクライマックスは、熱心にウミネコの版画集をつくっていた生徒(高行)の作品集を、版画クラブや「はまなすの会」の皆で力を合わせて完成させていくプロセスだ。版画クラブで中心的な存在だった中学3年生のセリフには、いぬいが坂本と生徒への取材を通して感じ、読者に伝えたかった物語のメッセージがつまっている。

「最上級生の林やぼくがこんなことをいうと、勉強がいそがしくて、じぶんで版画をつくれないから、逃げているように思われるかもしれない。だけど、そうじゃないんだ。ぼくは、ときどき、一点でも多く……と考えて、友人をけおとそうする、いまの学校のあり方がたまらなくなる。こんなことが、ばからしくて、めちゃめちゃに何かやりたくなる。でも、さいわいぼくらには《部》があるじゃないか。だったら、ぼくたちを、競争させたがっている大人たちへの一つの抵抗を示すためにも、高行の版画集を作りたいよ。たとえ、みんなの絵がのっていなくたって、それを作ることでみんなの画集とすることが、ぼくたちには、できるんじゃないか。(後略)」

(『うみねこの空』p.146より)

このように、1960年代以降の坂本にとっては、版画制作を通した「人づくり」は受験を重視とする教育に対するオルタナティブとしての意味があった。版画を通じて「ヒューマンな結びつき」を回復する可能性を信じた教育実践だったのである。

教育版画運動のなかでも、特に共同制作作品は教師と生徒たちという集合体でつくり上げるものだ。それは近代的自我の発露としての芸術と、同じ価値観でははかれないだろう。坂本の場合は教員として子どもたちを指導している間は、自身の作品には取り組まなかったという。それだけ指導作品に自身の生き方を投影していたし、かかわった子どもたちへのあたたかな愛情も込められていた。

教師の視点・生徒の視点から現代へ

「彫刻刀が刻む戦後日本」展が始まると、部屋いっぱいに展示された各地の子どもの作品をみて、自分の子どもの作品をみると自分の子ども時代を思い出して懐かしいという感想が幅広い年代から多く寄せられた。本展のキャッチコピーは「工場で、田んぼで、教室で  みんな、かつては版画家だった」としたが、それを裏づけるような反応だった。

一方で、おおむね50代後半から70年代前半にかけての人のなかには、作品をみていると自分が受けた集団主義的な教育への苦い感情を思い出すという声もあった。彼ら、彼女らの感想に耳を傾けると、自分に合わない教育を受けたことは、かえって自我が芽生える原点になったようにも感じられた。坂本と生徒たちの出会いから生まれた宝物のような作品もあれば、小中学校時代に受けた教育を今もトラウマのように抱えている人がいることも無視できない事実だと痛感した。

多くの教育版画作品はその歴史的な価値が認められづらかったため、廃棄され失われる危機にある。企画者として本展ではまずはこうした作品群が存在することを紹介することに重きを置いた。

展覧会の準備段階では各地の教員にインタビューをしてきたが、今後はかかわった生徒にも話を聞き、さまざまな地域・年代にわたる多角的な姿を伝えていきたい。それらに目を向けて多くの人に関心を持ってもらうことが、教育版画運動を始めた大田耕士やそれに加わった全国の現場の教員の根底にある思い、さらに実際に版画を制作した生徒の経験を、現代に生かすことにつながるのではないだろうか。

今後の予定

今回の展覧会のテーマで今後も調査していきたいと思っています。特に教育版画運動にかかわる作品や経験談など情報があればお寄せください!

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

YCAMキュレーターのレオナルド・バルトロメウスさんが山口から町田まで展覧会を見にきてくれました。インドネシア戦後美術史の視点から、本展の政治動向とリアリズム美術の立ち位置の問題を深く理解していただき、私自身の視野も広がりました。 バルトさんは現在、YCAMで「オルタナティブ・エデュケーション」のプロジェクトを進めているそうです。ジャカルタでルアンルパのメンバーとして活動されてきた時から、開かれた学びは重要なテーマだったのだと思います。日本での活動を経てYCAMではそれがどのように展開されていくのか詳しくお聞きしたいです。

アート×教育~ひろがるアート 目次

1
異文化交流から生まれるもの
2
ブックカフェから広がるアクション
3
DOING NOTHING BUT STUDIO OPEN
4
動物園の思い出
5
教育版画運動が蒔いた種
6
ともにつくり、ともに学ぶ
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