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アートマネジメントを超えて

ドラマトゥルクへの転換

 私の仕事のテーマは、アート制作者の地位向上と専門職化である。
 トヨタ・アートマネジメント講座を立ち上げたときは、アートマネジメントという用語がようやく日本に入ってきて、その用語を日本に定着させることが私には大きな関心事となっていた。と、同時にアート界と企業をどう結びつけるかも大きな課題だった。ちょうど企業メセナ協議会が発足して数年後の話である。少しは努力をしたような気もするが、かといって現在の状況がそれほどよくなっているとも思えない。今希望がもてるのは、アートマネジメント界の世代が交代していったことと、それにつれ30代の女性たちのイニシアティブが確立していったことだろう。ほとんどそれだけが未来を照らす灯りだ。
 トヨタ・アートマネジメント講座を始めて数年経ったときに、実は深刻な問題につきあたっていた。私は、アートの専門家という職能をつくり出したかったのだけれど、どうもマネジメントの専門家をつくり出していたようだった。当時私は、「研究者はアートの過去を、ジャーナリストはアートの現在を、マネジメントはアートの未来を見る者だ」、と考えていたので、何よりもアートに深い知識と洞察力をもつ必要があるのがアートマネジメントだった。しかしながら、特に舞台芸術では、アートマネジメントはアートそのものについての自身の考えを語らない。アートそのものの価値判断をすることを避ける。そこが現在でもなかなか突破できない境界線である。車のことが専門的にわからない車の営業職がいないように、アートのことが専門的にわからないアートマネジメントもいないのである。
 そこから長い間、アートマネジメントという用語に疑問と一種の拒絶反応があった。演劇やダンスのマネジメント(制作者)といえば、私がこの世界に入ってきたころは、キャストやスタッフが食べる弁当を手配するなど雑用をこなす人と思われてきた。その後は、広報や営業をしたり、金集めをする人だったような気がする。そのような仕事はやる必要がある限りはやるのだけれど、それをやりたいがためにアート界にとどまっていたわけではない。

 それから数年後、つまり21世紀にはいって数年経ったときに、やっと別の用語が日本に入ってきた。それがドラマトゥルク[*1]である。おそらくそれを最初に取り入れたのは「世田谷パブリックシアター」だったと思う。松井憲太郎氏を中心とした「学芸係」で、推測するにこの学芸という用語は、ドイツの「ドラマトゥルク」を翻訳したものに違いない。最初にドイツからドラマトゥルクを招いて、日本に紹介したのも彼らである。とはいっても、このドラマトゥルクという用語が舞台芸術界で広まっていくにはもう少し時間が必要だった。私がディレクターを務めていた東京国際芸術祭で2002年ころから多くのドイツ語圏の演劇を日本に招聘するとともに、ドラマトゥルクの紹介を積極的に行った。それと並行して日本でのドラマトゥルクの草分けとなる長島確氏の活動とその成果がはっきりと表れ、さらに平田栄一朗氏の著作『ドラマトゥルク』が2010年に刊行された。

 やっと本題に入ることになる。私は、アートマネジメントをこの「ドラマトゥルク」に変えていきたいと思っている。しかしながらドラマトゥルクは、ドイツで最も成功を収めた舞台芸術における職能であるが、日本では少し偏った紹介と理解があったようだ。
 日本では、ドラマトゥルクという職能は、演出家につき添って、資料を収集し、補佐し、アドバイスしていくものとして紹介されていった。要するに、実際に作品をクリエイトする場にいて、演出家とペアを組み、とはいえ演出家(ディレクター)のような決定権をもたないことで、逆に自由に発想できる立場が確保され、刺激的な発想が可能になるのである。そのことから逆にものを決める立場にあるディレクターの精神的負担がどのくらい大きいのかも類推される。そのような役割を果たしてきた典型が長島確氏だ。また、日本でドラマトゥルクを名乗る人々はほとんどがこれである。これをクリエイション型のドラマトゥルクと呼ぼう。
 しかしこれでは、ドラマトゥルクの半分しか紹介されてはいない。今、問題なのは制作型のドラマトゥルクである。劇場やフェスティバルの方針を考え、プログラミングし、プログラムの意義を常に考え、欠陥を修正する、あるいは地域との連携をはかり、その地域の芸術教育を担い、アーティストを育て、ワークショップを計画し、芸術機関の運営の実践を行うのもドラマトゥルクの仕事である。もちろん最終決定をするのはディレクターや「芸術監督」ではあるが、ディレクターだけですべてを決めることは不可能である。明治以降の日本のアーティスト像はどちらかといえば孤独な作業者、もう少しよくいえば孤高の人という感じで、一人でものを創るというイメージだった。あるいは一人で孤独にものを決める。しかし今では、価値観の異なる他者とのコミュニケーションを形成しながら、新しくものは形つくられる。ディレクター制というのは、一人に決定権が集中する独裁制のようにとらえられるが、実際はそのもとにたくさんのブレーンを抱えている。ディレクター制とドラマトゥルクは実は一対である。むしろディレクターよりドラマトゥルクの方がアートの専門家である。

 さて、問題なのは現在の日本におけるアートマネジメントスタッフである。ドイツでドラマトゥルクといえば優れて知的な作業者として認知されているが、日本でアート制作者(マネージャー)といえばとても知的なイメージとはいえない。実際は、日本で舞台の現場で働くアート制作者たちは実に優秀である、何でもこなす。ドイツのシステムをそのまま日本に持ち込もうというつもりはさらさらない。というのは、ドイツは極めて分業が確立した国である。だから、ドイツのドラマトゥルクは日本でいうさまざまな制作上の雑用はやらない。チケットを売ったり、宣伝したり、場内整備や劇場受付、食事の手配など、これらはドラマトゥルクとは別の職業であり、むしろワンランク下の仕事と見なされているのだろう。日本のアート制作者の間では、そのような分業は成立していない、むしろどちらかといえばドイツではドラマトゥルクの仕事とは見なされていない職能の方がアート制作者の仕事とされている。主要なヨーロッパ諸国は、いまだにホワイトカラーとブルーカラーはかなりはっきり区別されている。ドラマトゥルクはホワイトカラーの仕事であり、制作雑務をこなすマネジメントスタッフはブルーカラーに近い仕事だろう。日本の社会構造はそこまでのエリート社会をつくってはいないので、そんな区別をする必要はない。そのあたりはフラットな社会である。本当は、アート制作者はアートの専門家であり、同時に社会性を必要とされる。アーティストがどちらかといえば内向、求心的であるのに対し、ドラマトゥルク=アート制作者は社会に向かって開いている。

 日本の劇場はほとんどディレクター制をとっていない。だから、ディレクターのブレーンである制作ドラマトゥルクもいない。では、だれが劇場のプログラムを決めているのだろうか。これは答えるのが非常に難しい問題である。
 日本には、芸術監督制度というものがあり、一見ディレクター制度が成立しているかのように見える。芸術監督には、著名な芸術家が就任するのがほとんどであるが、ではそのような著名な芸術家がなる芸術監督は本当に劇場のプログラムに責任をもっているのだろうか。現実は、公共ホールの決定機構=システムが芸術監督という役割を必要としているのだが、それについては別のところで論じたいと思う。
 私には、芸術家は劇場やフェスティバルのディレクターに向いているとは思えない。というのは芸術家は、他人の作品をあまり見ない。著名な舞台芸術家を劇場で見かけることは稀である。特に若い作家の作品を見に行くような習慣はあまりない。ドラマトゥルク=アート制作者は、多くの作品を見るのが仕事であり、多くの作品を見ないアート制作者は大成しない。芸術家は、あまり多くの他人の作品を見るのはやめた方がいいような気がする。芸術家は他人の作品を相対化し、客観的評価するような職能ではないからだ。ただし、非常に稀な例ではあるが他人の作品をよく見る演出家・劇作家も存在するので、そのような「芸術監督」はディレクターになることは可能である。
 やはり、ヨーロッパでは劇場ディレクター、フェスティバルディレクターのような職種は、ドラマトゥルクからのステップアップが多いし、それが望ましいと私は考えている。それでももし、日本においては著名な芸術家による芸術監督制をとるならば、それと並立してディレクター制を導入するのがいいと思う。もちろんディレクターがドラマトゥルクを兼務することはできない、というのはディレクターは決定するのが役割であり、ドラマトゥルクはさまざまな可能性を示すだけである。それはパワー(権力)の違いである。強いパワーを持っている人間が、ドラマトゥルクをやってはいけないと思う。
 しかし、日本のアートマネジメント教育、育成事業は、劇場やフェスティバルのプログラムができるような内容をもっていない。アートそのものの評価を教えていないからで、本当に日本のアート制作者はアートに対して臆病だ。もちろん、アートの評価によってアートの順位をつけようというのではない、評価はいろいろな角度からそれぞれの考え方からされればいいし、一つの結論を出す必要もない。作品の意図を考え、全体プログラムとの関係を検討し、作品評価だけでなく、公演がその地域や教育とどのように切り結んでいるかなど、広く専門的な意見の交換によって、自分の考え方が相対化され、自分の気づかなかった見方や考え方があることを理解するためにやるのであって、作品や作家、公演の方法について語り合わなければ、何も生まれないし、自分も育たない。
 そのような育成事業を考案することもドラマトゥルクの仕事である。
 ドイツでは、ドラマトゥルクと経営や営業、広報、受付業務、稽古場つきなどをやるアート制作者とは区別されているが、日本ではそれを分ける必要もないし、それを分けるだけの経済力も日本のアート界にはない。日本のアート制作者は何でもこなすが、ただ仕事の軸をドラマトゥルクに置き換えることが絶対に必要である。そのためにはアートマネジメント教育というものを大胆に根底から見直すことが重要である、と思う。
 <今>、トヨタ・アートマネジメント講座があるならば、きっと昔のと少し違った形を考えたに違いない。

[註]

英語ではドラマターグ。ここではその制度がもっとも確立したドイツの言語の読みを使うことにした。どちらもドラマトゥルギーからの派生語だという。ドイツでは、主要な劇場には複数のドラマトゥルクが雇用されている。また演出家も一人から複数の専属的なドラマトゥルクと夫婦のようなコンビを組んでいる。歴史的には、ゲーテのドラマトゥルクをシラーが務めたのは有名。

(2013年4月1日)

※本コラムはリレーコラム連載100回記念特別編として、バックナンバーの第5回 (2005 年5月掲載)を更新するかたちで掲載しています。バトンタッチメッセージは 2005年当時のものです。

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(2005年5月)
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