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「現代美術」を「どうにかやっていく」ことについて

1.
 1994年のデビュー以来、私は「現代美術作家」を名乗っています。「現代美術」と呼ばれるジャンルで「作家」活動をしているので、二つをくっつけて「現代美術作家」という肩書きになるわけです。なんとも硬い字面ですが、私なりの考えがあってこの肩書きを使い続けています。「作」のつかない「現代美術家」、あるいはシンプルに「美術家」と名乗ってもよいのですが、私は「現代美術作家」という言葉が持ついかがわしさが気に入っています。それは好みの問題であると同時に、理屈の問題でもあります。というのは、私の活動は良くも悪くも現代美術というジャンルを前提にしていて、「現代美術家」(=「現代の美術家」)ではその意味合いがわかりにくくなってしまうと思うからです。現代美術という言葉を文字通りに読めば、「現代における美術全般」のことになります。しかし、ジャンルとしての現代美術は明らかに「現代における美術全般」とイコールではありません。現代美術というジャンルが持つ、歪で、偏っていて、誤魔化しすら含んでいるかもしれない、そうしたいかがわしさを、「現代美術作家」である私は忘れずにいたいと願っているのです。

2.
 アートマネジメントについて、私はごく初歩的な知識しか持ち合わせていません。このコラムを書くにあたって、インターネット上の情報やいくつかの文献を斜め読みした程度です。辞書で「manage」を引いてみると、「経営する、管理する」のほかに「どうにかやっていく」という意味があることがわかります。私にとってアート「マネジメント」とは、アートを「どうにかやっていく」ことにほかなりません。20代の前半、英国の美術大学で学んでいたころ、私は「どうにかやっていく」の意味での「manage」を頻繁に使っていた記憶があります。外国で、外国人として現代美術を学ぶことは、私にとって「どうにかやっていく」よりほかにない事柄だったのです。1994年の初個展以来、多くの人々の協力と寛容さに支えられて、私は現代美術を「どうにかやり続けて」こられました。首尾よく終えた仕事があり、周りに迷惑をかけた仕事があります。成功も失敗もありましたが、致命的な事故を起こすことなく今日まで「どうにかやって」こられたのは、幸運以外のなにものでもないと思います。

3.
 戦後アメリカ美術を代表するアーティストの一人、リチャード・セラの作品に「Sculpture No. 3」という巨大な彫刻があります。この彫刻を美術館に設置する際、2トンもの重さの鉄板の下敷きになって亡くなった作業員がいたそうです。セラの別の作品では、解体中の事故で一人の作業員が足を失っています。世界的に活躍するアーティスト、クリストの「アンブレラ・プロジェクト」では、巨大な傘状のオブジェが倒れて数名の負傷者と一人の死亡者が出ました。また、同作品の撤去中に作業員が亡くなるという事故もありました。これらの作品が、セラとクリストという二人のアーティストの仕事として「どうにかやれた」ものかどうかは判断が分かれるところでしょう。現代美術というジャンルとしては、これらの不幸な事故は「どうにかやり過ごせた」ものと考えられています。これは、いうまでもなく、現代美術だから「どうにかできた」ということではありません。「どうにかできた」からこそ、結果としてセラとクリストのキャリアは続き、ジャンルとしての現代美術もまた続いていったのであって、「どうにかやり過ごせ」なかったなら、そこで終止符が打たれていたかもしれないのです。もちろん、先に挙げた事故は世の中で数多起き続けている他の事故と本質的に変わるものではなく、そうした個別の、あるいは局所的な事故は、そもそも「どうにかやっていく」ことの一部として織り込まれているのだということもできます。ですから、これらの事故について殊更に文章を書き連ねている私こそが、現代美術を特別視しているのかもしれません。

4.
 福島第一原発の事故が起こるまで、私は原子力発電を「どうにかやっていける」ものだと考えていました。それどころか、いわゆる安全神話そのままに、「かなりうまくやっていける」ものだとさえ漠然と考えていました。私が15歳のときにチェルノブイリでの事故が起き、高校時代に広瀬隆氏の本を何冊か読みました。しかし、原子力発電、そして核に対する興味はじきに薄れてしまい、1990年代以降は当時盛んにいわれ始めたエコロジー的な危機の方に、より大きな関心を持つようになりました。原子力発電には多くの問題があるとしても、温暖化防止に一定以上のメリットがある(がゆえに維持する必要がある)とすら考えていたかもしれません。1994年に、私はある対談で「チェルノブイリでもチャレンジャー号の事件でも、起こってしまえば徐々に徐々に危機というものはあっけなく乗り越えていけるんだということが、一般化された意識として定着されていってしまう」と述べています。ここでの「乗り越えていける」は、上に書いた「どうにかやっていく」と同じことを意味しています。私はこれらを批判的にいっているのですが、こうしたケセラセラ的な思考の中身を正しく理解しなければならないと、今の私は強く感じています(それも、あまり時間をかけすぎることなく)。

5.
 社会学者の宮台真司氏は、技術の社会的な制御が確立されていない日本で原子力発電はダメだ、といった主旨の発言をしています。アメリカや、フランスや、ドイツや、その他の原子力発電を行っている国々はともかく、日本ではダメだという主張です。私は、この考えに賛同します。それは、日本人と呼ばれる人々が生来的にダメだという意味ではありません(もっとも、その可能性もまた心のどこかにとめておく必要はあると思います)。少なくとも、今の日本ではダメなのです。では、10年後ならどうでしょうか。50年後、100年後なら大丈夫なのでしょうか。正直なところ、私にはわかりません。私にいえるのは、原発事故を収束させるためのロードマップが必要なのは当然として、日本と呼ばれる文化圏において現実的に、つまり実現可能なものとして、どのくらいの時間をかければ原子力発電を十分安全に運用できるようになるのか、というロードマップを思い描くこともまた、絶対に必要だということです(そしてもちろん、そもそも人間には核を十分安全に運用することはできない、という可能性も考慮しておく必要があります)。そして、このロードマップをつくるにも、多くの時間が必要になるのです。

6.
 私はこの20年ほど、日本の近代美術の歴史について考え続けてきました。それに直接の題材をとった作品もいくつか制作しています。美術史家、北沢憲昭氏の『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(1989年)を嚆矢に、日本における「美術」の歴史があらためて問われ、それが、いってしまえば「どうにかやってきた」歴史(北澤氏の言葉でいえば「偽史」)であることが明らかにされました。その「偽史」における最も大きな「事故」が、太平洋戦争中に多く描かれた、いわゆる戦争画です。日本の近代美術史の矛盾、その時々において個別に、あるいは局所的に「どうにかやり過ごしてきた」矛盾が、戦争画という形で一気に噴出したのです。その帰結は、何人かの画家たちを断罪することによるガス抜きであり、戦中の体質を根本から変えることなく戦後にまでつなげてしまうことでの事態の沈静化でした。日本の近代美術は、そして現代美術もまた、すでに「過酷事故」を起こしているのかもしれません。日本と呼ばれる文化圏において、近代美術、そして現代美術はダメなのかもしれないと思考してみること。そうすることで、「近・現代美術」を「どうにかやっていく」ことの意味がわかるかもしれないと、私はそう考えているのです。

7.
 現代美術が「かなりうまくやっていける」ものかどうか、あるいは控えめにいって「どうにかやっていける」ものかどうかの判断は、現代美術の内側だけでなされてはならないはずです。現代美術作家である私は、ややもすると、意識的にせよ無意識的にせよ、現代美術というジャンルの「安全神話」に荷担してしまう危険性を自分の内に抱えています(実践的には、それもまた必要なのですが、原発の安全神話こそが、そうした実践的な必要によって形づくられてきたことを忘れてはならないでしょう)。現代美術に「過酷事故」が起こるとすれば、それは外からの判断を失ったときに違いありません。それはまた、外と内の区別が失われ、外が内の反映にすぎなくなったときでもあるでしょう。近代美術と呼ばれるものは、美術というジャンルの自律性をキー概念として発展してきました。そして、それに対する批評的なカウンターとしての現代美術があり、多くの人々によるさまざまな試みの連鎖として今日まで続いています。その歴史は尊いものですが、それを自明で揺るぎないものと信じてしまえば、現代美術の現代美術たるゆえん、あるいはその美徳と善性を放棄することになってしまいます。

8.
 2011年の7月から、私は大分県別府市にある「清島アパート」という、いわゆるアーティスト・イン・レジデンスに参加しています。清島アパートはNPO法人BEPPU PROJECTによって運営されているスペースで(築60年以上の二階建て木造アパートです)、「別府現代芸術フェスティバル2009『混浴温泉世界』」の会場の一つになりました。「混浴温泉世界」は昨年2012年に二回目が開かれ、そこで私はある知見を得ました。それは、アーティストからの発信は、それが期待する通りに受信される必要はないということです。「別府現代芸術フェスティバル2012『混浴温泉世界』」は8つのプロジェクトで構成され、その一つに「混浴ゴールデンナイト!」というプロジェクトがありました。金粉ショーのダンスチーム「The NOBEBO」をトリに据えた、公募で選ばれたさまざまなパフォーマーたちによる一時間半ほどのイベントです。「混浴ゴールデンナイト!」は「混浴温泉世界」の2ヵ月間の会期を通して毎週末に催され、多くのリピーターを生む活況を呈しました。そこで重要な盛り上げ役を担ったのが、「ライスボール山本」さんでした。山本さんは清島アパートを陰に日向に支えてくれている近所のおじさん(ナイスガイ!)で、金粉ダンサーたちの「人拓」を取るというアクションを「勝手に」起こしました(会期の途中からは、イベント運営者によって半ば公認されました)。これは、The NOBEBOというアーティストからの発信の「誤受信」です。山本さんはイヴ・クラインの「人拓」作品のことなど知らぬまま、ダンサーたちの体に塗られた金粉を使い古されたシーツに転写することで、いわばアートを「転用」したのだといえるでしょう。この振る舞いはすばらしくアート的であると同時に、潔いほどアートと無関係です(山本さんは、それが本心かどうかはさておき、常々「アートはわからん」といっています)。この「転用」が生まれるに至ったのは、もちろんBEPPU PROJECTによる地道な活動の蓄積があってこそですが、こうした出来事が「起こる」ことは、現代美術を「どうにかやっていく」こととは決定的に異なっているように思えてなりません。山本さんは、アートがアートとして、そして同時にアートではないものとして、大きな喜びを生むものだということを具体的に示してくれたのです。

(2013年4月26日)



今後の予定

● グループ展

「引込線2013」
・会期:2013年8月31日(土)
〜9月23日(日)
・会場:旧所沢市立第二給食センター

● レクチャー

どうして、そんなにも、ナショナルなのか?
ナショナル(国民的、国家的)なものの視点から近・現代美術を問う、全12回の連続レクチャー。明治期の日本、18〜19世紀のアメリカ、太平洋戦争戦中戦後の東アジア、現代の日本、の4つの時代と場所を主題に論じます。

#5「新しき土:満州というフィールド」
・日時:2013年5月10日(金)19:30〜
・会場:blanClass

#6「『美術』というフィールド:フェノロサ」
・日時:6月14日(金)19:30〜
・会場:blanClass

#7「アメリカというフィールド/オブジェクト」
・日時:7月12日(金)19:30〜
・会場:blanClass

● 上映会・パフォーマンス

「今日の踊り 一挙上映会」(仮)
・日時:2013年7月20日(土)(予定)
・会場:blanClass

「踊ります 2013年参議院選挙」(仮)
日時:2013年7月21日(日)20:00~(予定) Ustreamでライブ中継

「眞島竜男+外島貴幸 小説集「bid」出版記念イベント」(仮)
・日時:9月7日(土)19:30~(予定)
・会場:blanClass

● 動画配信

今日の踊り
毎日2分間、夏の参議院選挙の開票日まで踊ります。

おすすめ!

自炊と踊り。

次回執筆者

バトンタッチメッセージ

山出淳也のアートへの思いの丈を聞かせてください!
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