『この世界に、バグを。』を実現するアートセンター
アートの現場レポート!企業編
企業の中にもたくさんのアートの現場が存在します。ここでは企業が行うメセナ活動(芸術文化振興による豊かな社会創造)の現場へ足を運び、担当者の方へお話をうかがう取材レポートをご紹介します。アートを通して企業のさまざまな顔が見えてくると同時に、社会におけるアートの可能性を見出します。
第7回は株式会社リクルートホールディングスが運営する東京駅八重洲口にあるアートセンター「BUG」をメセナライターの清水康介さんが取材しました。
日本を代表するクリエイターから先鋭的なクリエイターの作品を紹介し、交流の場も創出してきた「クリエイションギャラリーG8」と、若手のクリエイターの支援をしてきた「ガーディアン・ガーデン」の2つのギャラリーを長年展開してきたリクルートホールディングス。同社が30年以上居を構えた銀座の地を離れることをきっかけに、これらギャラリーの精神を継承しつつ、新たな方向へ転換を図り、2023年にBUGがオープン。「この世界に、バグを。」をコンセプトに、展覧会事業だけでなく、アーティストの活動をサポートし、アートを通じてさまざまな人が出会い、互いに影響を与え合う場所としてアートセンターとしてスタートしました。
2つのギャラリーのクローズから新たな方向性を打ち出し、オープンするまでのいきさつを、財団・アートセンター推進部部長の花形照美さんにお話しをうかがいました。美術館やギャラリー、あるいはフリーランスでアートにかかわる仕事をされている方を「アートワーカー」と称し、その方々に対するリスペクトは半端なく、同社の芸術文化支援に対する姿勢がひしひしと伝わってきます。人材派遣業界のトップ企業ならではのアート支援のあり方とリクルートホールディングスのメセナの展開と発展。ぜひお読みください。
人々が慌ただしく行き交う東京駅の八重洲口に位置する駅ビル「グラントウキョウ」。その南棟の1階に、2023年9月20日、アートセンター「BUG」はオープンした。「ライフステージへの配慮」「適切なパートナーシップ」「キャリアの支援」という3つの活動方針を設定している点でも、現代アート界隈ではユニークなスペースとして話題を集めている。
併設するカフェ「BUG Cafe」には、昼食に訪れるオフィスワーカーや、ラップトップを広げて作業に勤しむリモートワーカーが多く見られる。カフェだけを見れば、都心によくある光景といえるだろう。しかしながら、カフェスペースを抜けて奥へと進むと、そこには現代アートを展示する空間が待ち構えている。それが「この世界に、バグを。」をキーメッセージに掲げるアートセンター「BUG」だ。
BUGを運営する株式会社リクルートホールディングスは、以前より銀座の地で「クリエイションギャラリーG8」と「ガーディアン・ガーデン」という2つのギャラリーを運営してきた。2つのギャラリーを閉鎖することが決まり、新しいスペースを準備していた2年以上もの期間を振り返って、(株)リクルートホールディングス 財団・アートセンター推進部部長の花形照美氏は述懐する。
東京駅直結の立地に場所を移し、一つのスペースに集約するなら、2つのギャラリーが担っていた領域をどうするかということを色々と考えました。以前のG8は、どちらかというと長年業界で活躍されてきたクリエイターの皆さまの展覧会が多く、若い方々に学んでもらう場所でもありました。メンバーと議論を重ねるなか、新しい価値をつくり続けていくという会社の方向性とも照らし合わせて、BUGでは、新しい表現を見出すことや、まだ評価されていない若手を紹介する活動をしていきたいと思いました」
BUGでは「アートセンター」という用語を「アーティストの活動をサポートし、アートを通じてさまざまな人が出会い、互いに影響を与え合う場所」と位置づけている。リクルート社が掲げる「まだ、ここにない、出会い。」というコピーとも響き合うように感じられる。
「わざわざ『アートセンター』といおう、という構想は早い段階で持っていました。収蔵品は持たないけれど、ハブとなる場所。アートにかかわる仕事に就いている方はフリーランスが多い。フリーランスは孤独にもなりやすいので、仕事上で何かトラブルがあったときにも、どこに相談していいかわからないこともあります。『ここなら安心して話せる』という、単に仕事というだけでなく、精神的な安全を担保できるネットワークがBUGを通じてできればとも考えています」
コロナ禍だったからこその奇跡
取材日に開催されていた展示では、とても大きな音を伴う作品が出展されていて、その音はカフェを訪れる人々の耳にもいやおうなしに届く。ビジネスの中心地である東京駅の駅ビルで、気鋭作家による現代アート作品と出合う体験は確かにおもしろいものとなりそうだ。リクルートの社員にとってはどうだろうか。
「情報誌を出していたころのように、社員がギャラリーで出会ったデザイナーと協働するというような、直接的な関係が生まれることは、今の段階ではまだ難しいでしょう。ただ、イノベーションを大事にする企業風土なので、アーティストのものに対する見方や考え方を知って、まったく異なる視点を得てもらえたら。出展作家にもなるべく在廊してもらうほか、インタビュー映像などでも作品の背景についてていねいに話してもらうよう心がけています。『なるほど、こういう問題意識をこういうアウトプットでするのか』という刺激を受けてくれる人が一人でも現れてくれたらうれしいです」
ガーディアン・ガーデンの入居するGINZA7ビル(現ヒューリック銀座7丁目ビル)を2012年に、クリエイションギャラリーG8の入居するリクルートGINZA8ビルを2021年に売却したリクルート。グループ企業も含め、リクルートホールディングスのすべての会社がGINZA8ビルから撤退することが決定される。
「自社ビルを持たない身軽な経営をしていくという、会社の戦略的な考え方については理解していましたが、私たちからすれば突然の出来事でした。新しい場所を探しましたが、少しあきらめ気味で。経営陣のいる本社からも離れた場所で、ガーディアン・ガーデンだけを運営していく意義を模索していました。そうしたら、コロナ禍の影響でこの場所が奇跡的に空いたんです」
持ちビルであれば、文化に関するスペースをつくることで建築基準法上のメリットなどもあるが、自社ビルを持たないリクルートではそれも得られない。条件に見合う物件を探し出すことは実に大変だったろうと推測される。そんな折り、2022年にBMW JAPANの本社がグラントウキョウサウスタワーから移転したのだ。
「このスペース自体は2023年の3月にはできあがっていて、カフェがオープンしたのが4月です。銀座の2つのギャラリーを運営しながら、こちらの準備も進めていて、実質3つの場所を運営している感じで、この期間は本当に大変でしたね」
2つのギャラリーの精神を継承しつつも新しい方向へ
「特に現場のスタッフは本当に大変だったと思います。私は要望して監督しているだけなのでいいんですけど」と笑いを誘う花形氏だが、公式ウェブサイトで見ることのできるBUGの準備段階の様子からは、協力者と時間をかけてていねいにプロジェクトを進めてきたことがうかがえる。
「私自身はギャラリーを立ち上げた経験も、展覧会を手がけた経験もありません。スペースも単にスケルトンな空間があっただけで、ホワイトキューブにすればいいのか、もっと他の選択肢があるのか、いちいちわからなかったんです。また、常識といわれることが正しいとも限らないので、色々な方のご意見を聞こうと考えました」
真っ先に相談したのが、リクルートでガーディアン・ガーデンの立ち上げに参加し、今は武蔵野美術大学で教鞭を執る菅沼比呂志氏だ。菅沼氏の紹介で、インディペンデントキュレーターの長谷川新氏が、初期段階からプロジェクトに加わった。その後東京オペラシティアートギャラリーでチーフキュレーターを務める天野太郎氏が、2023年度を通じて展覧会のつくり方などを指南するアドバイザーとして参加する。
「早い段階で、お願いしたのがグラフィックデザイナーの菊地敦己さんです。長いおつき合いがあり銀座の2つのギャラリーのこともよくご存じで、これからの私たちの活動も応援していただけそうということで。G8の閉館を残念がってはくれましたが、皆で考えて新しい方向に進めたらと、最初から応援してくださいました」
ガーディアン・ガーデンで長らく行われていたコンペティション「1_WALL」の審査員も務めていた菊地氏は、BUGが主催するアワード「BUG Art Award」でも審査員に名を連ねており、リクルートがグラフィックデザインの分野で力を入れてきた活動を継承する「橋渡し」的な役割も担っている。なお、BUGのウェブサイトでは、2つのギャラリーの活動についてのアーカイブを閲覧することもできる。
「アーティストの目線からスペース設計やコンセプトにかかわっていただいたのが、雨宮庸介さんです。雨宮さんは、私達がBUGで応援したいキャリアのロールモデルでもあったので、現代アートを紹介する場所として周知するための、こけら落としは雨宮さんにお願いしたいとも思っていました。今も、山梨にお住まいですが、BUGでの展覧会はすべてご覧いただいています」
融解するリンゴの彫刻などで知られる雨宮氏は、ガーディアン・ガーデンの公募展『ひとつぼ展』に初出品でファイナリスト、2回目の挑戦ではグランプリを獲得した。その後、花形氏が評議員を兼務する公益財団法人の江副記念リクルート財団の奨学生として、37歳でオランダに留学した経歴を持つ。まさに、リクルートが運営するアートセンターによるキャリア支援の理想的な姿といえよう。
アートワーカーへのリスペクトを忘れない
「雨宮さんは、子どもがいることを前提とした作家活動を体現している方でもあると思います。BUGでの展覧会でも、ここに何十日も滞在してもらうことになりますが、その間は奥様のワンオペ育児になるということでいいのか。私自身、ワーキングマザーも多くいるリクルートで女性の活躍を推進する責任者を5年くらい担当していて、課題もよくわかっているし、それに対する打ち手も持っているつもりです。一方で、アーティストにも人生があって、子どもだっているという当然のことを、生まれて初めてくらいに考える機会でした」
現在、リクルートでは30代の従業員のうち半数以上が子どもを持っており、花形氏が「私が若いころには考えられなかった」2人目や3人目がいる家庭も珍しくないという。キャリアとライフプランの両立について深く考え、実際に実現してきた花形氏をしても、アーティストのライフステージというものは見逃されていたようだ。
「やっぱりフリーランスは忘れられがちだなと、自分自身も反省するポイントでした。いわゆる適齢期での作家活動を考えても、大きな格差があると感じました。企業の場合は『やらねばならない』という状況になっていますが、アート業界では、そういうことをいっているところもあまりない。問題として表出さえしていない。だったら人材派遣の会社、キャリアに真摯に向き合う会社であるリクルートが、先頭を切っていく必要があると思いました。正直、まだできていないことばかりですが、『私達はそういうことをやっていくんです』とちゃんといった方が業界全体に対するインパクトも与えられるのかな、と」
人材派遣業界のトップ企業だからこそ、フリーランスで働く人々のキャリアプランにも真剣に向き合う。その態度は、展覧会に名前を冠するアーティスト本人だけに向けられたものではない。BUGでは、アーティストに限らず「美術館やギャラリー、あるいはフリーランスでアートにかかわる仕事をされている方」すべてを「アートワーカー」と定義づけている。「ライフステージへの配慮」「適切なパートナーシップ」「キャリアの支援」という3つの活動方針は、当然それらアートワーカーに対しても適応されるものだ。
「展覧会が作家だけでつくられるものではないということに自覚的でありたいと考えています。インストーラーや宣伝美術など、裏方みたいな仕事はたくさんあります。照明一つとってもスペシャリストの仕事なのに、役割に対して適切な価値づけがなされているのか。そういうことを、あまり慣例に縛られずに見極めていこうということを考えています。名前が出ない働き方をしていると、報酬的にも労働時間的にもやはり虐げられがち。でもそうやって一緒に展覧会をつくってくださる方々がいないと展覧会自体できません。アートワーカーという言葉が適切かどうかはまだ分かりませんが、そういう方々に対するリスペクトを忘れないで活動を続けていきたいです」
展覧会場で渡されるハンドアウトには設営担当者の名前なども確認することができる
取材を終えて
会話の端々から、非常にロジカルで知的な印象を与える花形氏。才気煥発な彼女の発言には、企業の資金をアーティストが使う際の態度に対する考え方や、企業で培った能力を惜しみなくフリーランスに伝授したいという熱意など、本稿で取り上げられなかった話題も豊富だったのだが、紙幅に限りもあり、ごく一部しか伝えられないことを申し訳なく思う。 「人材」を生業とする大企業にあって、アート業界という不安定な世界に生きるフリーランスの「ワーカー」たちについて、こんなにも真剣に考えてくれる人がいるという事実に、心強く感じたことを申し添えておきたい。
株式会社リクルートホールディングス
取材日:2024年6月6日(木)
取材先:アートセンター「BUG」(東京都千代田区丸の内1丁目9−2 グラントウキョウサウスタワー 1階)
メセナライター:清水康介(しみず・こうすけ)
ウェブメディア『タイムアウト東京』にてエディター/ライターとして、アート記事を中心に担当。退社後はフリーランスとして、レビューサイト『RealTokyo』の編集業務や、NPO法人スローレーベルの賛助会員向けコンテンツの記事執筆などを手がけるほか、ウェブサイトの制作や舞台作品の演出助手など、頼まれるまま色々と手を出しています。