ネットTAM

4

鑑賞者開発/今後の展望

鑑賞者開発

 前回までに、現状分析⇒目標設定⇒戦略策定⇒計画の実施⇒結果の評価と調整という、アートマーケティングの基本をひと通りお話してきました。

 しかし、このようなマーケティングを進めるにしたがい、マーケティングが内部的に抱える矛盾が表出してきます。それは、マーケティングを集中的・効率的に行えば行うほど、実は観客層を限定してしまうことになる、という現実です。同じ予算を使うのであれば、決まった顧客層に働きかける方が新たな観客の開発よりも効率がよいことはマーケティングの世界ではよく知られています。これを続ける結果、マーケティングによって、固定した顧客層、そして彼らが醸し出す独特の、他の人にとっては排他的とも感じられる雰囲気が生まれ、マーケティングにとって本来は重要であった社会的な意義が薄れることとなります。ここで必要になってくるのが、鑑賞者開発という考え方です。ヨーロッパでは特にイギリスにおいて進んだ活動領域であり、アメリカではアウトリーチと呼ばれることもあり、マーケティングが高度に発達した国における一種の「文化の民主化」運動としての意味を持っています。

 それでは、具体的にどのような鑑賞者開発プロジェクトが必要とされるのでしょうか。文化鑑賞を妨げる要因との関係から、次のように考えていくことができます。

 第1番目は、地理的なアクセスを改善するものです。文化活動は、通常は都市部に集中しがちです。農村・山間部に住む人々にとっては、文化イベントが行われている場所までの距離は大きな障害です。そこで具体的には、地域における文化の拠点づくりや都市部からの地方出張公演を促す特別の補助金を交付する、ということが考えられましょう。

 第2番目には、経済的アクセスの改善です。従来、ヨーロッパの文化政策においては、政府の補助金により、チケットの値段を低く抑えるということが基本的な考え方であり、それは確かに意義をもってきました。しかし、自分が楽しめるかどうかわからない未知数の文化に対して、あるいは興味を持っていない文化に対しては、どれほど安くしようとも人々は支払いの価値を見出せません。文化プロダクト、それもライブの公演や映画上映などは、お金を払って一度体験しない限りは、そのプロダクトの全容を知ることは不可能です。一般の商品(例えば自動車、服)なら、あらかじめ試してみて、自分に合うかどうかがわかってから買えるのに対して、文化は商品に対するリスクを消費者が負わなければなりません。そこで、鑑賞者開発では、思い切って無料で招待する、あるいは街角で、人々が通りがかりに見聞きできるような公演の"見本市"を行っています。こうして、少なくとも一度目はリスクをとらずに体験できる機会づくり、あるいはその人の内に潜んでいた文化への関心に刺激を与えるのです。

 第3番目には、物理的なアクセスをよくすることが考えられます。車椅子を利用する人のためにスロープをつけたり、広いトイレをつくったり、というようなことは、わが国の文化施設にも近年増加しています。イギリスではさらに、公演における手話通訳のサービス、美術館における視覚障害者のための鑑賞教室などのサービスもあります。しかし、実際、このようなものを用意して「障害者の方もどうぞ」といって待っているだけでは、彼らは文化施設に来てくれるわけではありません。アクセスを阻む障害を取り除くだけでは不十分で、彼らに積極的に働きかけなければ参加は促せないのです。イギリスでは、身体障害者が文化を楽しむための手助けをするNPOがあり、ボランティアの人々により、身体障害者を文化施設まで送迎するサービスを提供しています。このようなサービスがなければ、どれほどスロープやエレベーターを設置しようとも、結局意味がありません。このNPOの場合、サービス利用者とボランティアの興味がなるべく一致するようアレンジし、両者が一緒に楽しめるように工夫されています。さらには、身体障害者にとって必要な種類の、文化施設に関する情報の提供も必要です。公演や展覧会などのイベント情報、そして文化施設の身体障害者用設備に関する情報を、目が不自由な人々も内容を把握できるような形で提供していかなければ、前述のような"エスコート・サービス"も効果を発揮できません。

 第4番目には、上述の点に関連しますが、情報面でのアクセスを改善していくことです。ある程度文化に興味を持っている人々に対してなら、街角のポスターやリーフレットは効果的ですが、こういったものは興味を持っていない人の目には入ってきません。ところが、身近な人間から直接「この公演がおもしろかった」などと聞くと、そうかな、と思うものです。そのような口コミネットワークを積極的に整備するため、エディンバラにある鑑賞者開発サポートセンターである「オーディエンス・ビジネス」では、タクシー運転手、ホテルの従業員、美容師などに対する文化参加の機会を提供しています。実際、これらの人々は、文化イベントに出かける度に、自分なりの判断を形成し、お客さんたちに情報を伝えているという効果を生んでいます。

 このように情報面で興味深いものが得られたりしても、実は文化、特に芸術と呼ばれるものに対しては多くの人が何らかの心理的抵抗を持つものです。これが最後にあげる心理的・文化的バリアです。イギリスには、インドやパキスタン、ジャマイカ、あるいは香港などからの移民コミュニティが数多くありますが、彼らの間では、イギリス風の博物館・美術館には大きな抵抗があります。そもそも、彼らの母国の文化には、ミュージアムを訪れるという文化がなく、イギリスのミュージアムからは、怖い感じや威圧感を受けるのです。そこで、ミュージアムが、これらの少数民族のコミュニティと共同で展示のプロジェクトを起こしていくことが、イギリスでは盛んになりました。例えばロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムでは、インド人コミュニティに学芸員が出かけ、インドの文化、イギリスにおけるインド人コミュニティの生活などについて聞き取りを行うという手法をとりました。このような手法は、他のミュージアムにも広がっていますが、英語が話せないコミュニティの人が多く、時間と費用がかかること、そしてミュージアム側とコミュニティ側の興味の一致点を見出す苦労などもあります。

今後の展望

 以上、アートにおいてもマーケティングとその延長にある鑑賞者開発が今日必要とされていること、その意義と具体的手法について簡単に説明してきました。マーケティングによってめざすべきは、単なる事業収入の増加ではなく、顧客とのコミュニケーションに深みと厚みを増していくために、顧客のプロフィールとそのニーズを理解すること、そして顧客層を特定の人々に限らず、芸術の社会性を強化していくという意味もあるのです。具体的手法は、SWOT分析などにもふれましたが、「己と相手を知る」ことに尽きると言えましょう。

 最後に、マーケティングにおいても、また鑑賞者開発においても、もっとも重要なことに一言ふれます。それは、これらの活動を「団体全体で担う」ということです。運営トップからスタッフ、アーティストにいたるまで、全員が、マーケティングは単なる技術的活動なのではなく、団体運営の核にあるべき思想だとして、信念を持って取り込まない限りは、マーケティングの本来の可能性は発揮されません。確かに、実務的には、担当者レベルでの仕事が中心にはなりますが、団体全体の態度、方向としてマーケティング=顧客との対話を大切にしなければ、その仕事も無駄になるでしょう。

(2007年4月15日)

アートマーケティング入門 目次

1
イントロダクション/アートマーケティングの必要
2
アートマーケティングの基本:現状分析
3
アートマーケティングの基本2:戦略策定と実施
4
鑑賞者開発/今後の展望
この記事をシェアする: