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楽譜の中の音楽

私は「音楽」という言葉がとても好きです。

元来「楽」という字は楽器を意味し、それを用いた音楽そのもの、転じて「楽しい」の意味を表すようになったとのことですが、シンプルに「音を楽しむ」は、日々私たちが接している音楽を描写する素敵な日本語だと思っています。

この「楽」の文字を使う楽譜をオーケストラに携わるほとんどの人が使用する、その管理をしているのが私の仕事「ライブラリアン」です。

ライブラリアンのお仕事──「第九」を例に

では具体的に何をする仕事なのか、たいへん極端ですが年末恒例の「第九」こと、ベートーヴェン:交響曲第9番の公演を行う際、楽譜が在庫になくオーケストラも初めて演奏すると仮定し、リハーサルが始まるまでの仕事から話を進めたいと思います。

楽譜の手配

指揮者と相談し、どの楽譜で演奏するか確認する(同じ曲でも出版の経緯や校訂者などによりいくつもの楽譜が存在する場合があります)。

購入可能ならば購入、レンタルしなければならないときは代理店が国内にあるか調査、ない場合は海外から直接レンタル*1する。

orchestra_5_scores.jpg
NHK交響楽団が所有する第九のスコアだけでもこんなに! 楽譜の景色が変わると音楽そのものも違って見える。

*1:楽譜のレンタル
演奏に際し、当該作品の音楽著作権の有無に関わらず出版状況によって楽譜をレンタルして演奏する必要がある。第九はBreitkopf社、Bärenreiter社の楽譜であれば購入可能だが、Peters社の楽譜を使用する際はレンタルが必要になる。

楽譜が納品されたらページに落丁がないか、印刷の品質が適当であるか確認し、ライブラリーの在庫にする場合はカタログ管理番号を付与する。

楽曲の編成確認

弦楽器各パートがそれぞれ何人必要か指揮者、公演制作担当者と確認する。

独唱4名(ソプラノ、メゾ・ソプラノまたはアルト、テノール、バリトンまたはバス)、混声四部合唱
ピッコロ1、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラ・ファゴット1、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ1、大太鼓1、シンバル1、トライアングル1、弦五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)

各部署との情報共有

第九は4つの楽章で構成されているが、使われる楽器のうち一部の楽章でしか使われない楽器は下記の通りである。

  • ピッコロ(第4楽章のみ)
  • コントラ・ファゴット(第4楽章のみ)
  • トロンボーン(第2、4楽章のみ)
  • 打楽器(第4楽章のみ)

この情報をリハーサル順の調整や楽団員の出番を管理する担当者に伝え、リハーサルが効率よく行われるよう配慮する必要がある。

使用楽器についての情報提供

この曲ではクラリネットはC管、B♭管、A管の3種類、トロンボーンはアルト、テナー、バスの3種類を使用する。C管クラリネットは持っていない奏者もいるので確認の必要がある。

楽譜の調整

スコアとパート譜の異同を確認・修正する(残念ながら異同がたくさん! 曲によってはこの作業だけで1ヶ月かかることもあります)。

各弦楽器首席奏者と相談し、基本のボウイング*2が決まったら必要な楽譜に記入する。スコアとパート譜で同じ練習番号、小節番号がついているか確認する(こちらも残念ながらスコアにはついている番号がパート譜に書かれていないことがあります。リハーサル中、曲の途中から始める時にたいへん困ります。書いてある番地が地図になくて目的地に行けないようなものです)。

*2:ボウイング
弦楽器パート譜には、弓の動かし方を各パートでそろえて演奏するため記号が記入されている。弦楽器奏者は通常2人で1つの楽譜を見て演奏するので、奏者の数の半分の冊数が必要になる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ボウイング

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コの字がひっくり返ったような記号は弓の根元から先へ、Vのような記号は弓の先から根元へ動かす記号。音から音へ曲線で描いている書き込みはスラーで滑らかに音をつなげて演奏することを意味する。

楽譜のレイアウト、曲の構成(次の曲に間合いなく続けて演奏される場合など)によって、ページのめくりが適当でない場合があるので、別紙を貼りつけるなどして対応する。

第3楽章のホルン・ソロ(一人で演奏すること)が楽譜上4番ホルンに書かれているのをご存知でしょうか。一説によると、初演時のオーケストラでこのメロディーが演奏できる優秀なホルン奏者が4番吹きだったからだそうです。現代オーケストラの担当分けでは1番奏者が吹くことが多く(先日のN響公演でもしかり)、一人の奏者が1番→4番、4番→1番など何度もパートを交代するので、その都度楽譜を準備することになります。

上記の準備が終わり楽譜は音楽家の手もとへ、リハーサルを経て公演が終了したら使用状況を記録し棚に戻す、その繰り返しの日々。寄せては返す波のうえでずっと泳いでは時々浮かんでいる、そんな感覚になることがあります。

ライブラリアンというお仕事との出会い

大学ではヴァイオリンを専攻。卒業を2ヶ月後に控え、掲示板の「オーケストラ・アンサンブル金沢(以下:OEK)ライブラリアン募集」の求人広告を見たことがきっかけでした。

「ライブラリアンって楽譜係のこと? どんな仕事なのだろう…」
いくら考えても想像できませんでした。

当時OEKとの合同公演が岡山県津山市で予定されており、プログラムのメインはショスタコーヴィチ:交響曲第5番でした。公演の1週間前に阪神・淡路大震災が起き、山陽新幹線は復旧の見通しが立たず、金沢からOEKの楽団員が移動できるかも不明。この曲はコンサートマスターのソロがあり、リハーサルでは弾いていたものの本番で弾くことはないと思っていた私は急に焦りました。

「学生だけで公演をすることになれば私がこの曲をリードしなければいけなくなる…」
覚悟を決めなければと思っていた矢先、「予定通り公演を行うことになりました」という発表。

「?」

「OEKは金沢から羽田を経由して鳥取まで空路で向かい、津山市まで電車で複数に分かれて移動します。学生が長期間にわたり準備していたことを岩城宏之音楽監督からうかがっていましたので、金沢からの移動が可能であるのなら、なんとしても駆けつけたいと思っています」というメッセージ。

私が自分の心配をしているころ、OEKはあの状況下で公演実現に向けて検討してくださっていた、きっと直前になって全員分の飛行機の手配をするだけでも大変だったのではないだろうか。これがプロフェッショナルということなんだ! 本当に感動しました。

リハーサルと本番でも、真摯にそして心から音楽を楽しんでいる岩城宏之氏とOEKの中で演奏し、その側で見守っている事務局員とステージマネージャーの姿が目に飛び込んできて、「このオーケストラに入りたい、プロの世界で仕事がしてみたい」と強く思いました。入団してからも仕事に向かう凛とした雰囲気と音楽のすばらしさに包まれた、私にとってかけがえのない時間。今でも懐かしく思い出します。

ライブラリアンになってから

とはいえ、やはりOEK入団当初はなにから始めればよいのかまったくわからず、CD録音に必要な楽譜を準備せよ、と歌手からの希望楽曲リストと調性*3の資料を1枚渡された時は頭が真っ白になりました。皆さんも小学校で聴いたことがあるかもしれない「シューベルト:魔王」、リストが管弦楽に編曲したことも当時知らなかったし、どこで楽譜が入手できるのかもわからない、歌手のマネージャーに時差を考えながらFAXを送ったり手紙を書いたり。

*3:調性
歌手の声種や慣習などによって同じ歌でも調が違う場合があるので、事前の確認とその調に合った楽譜が必要になる。カラオケでは+−ボタンで音が変わるので、楽譜も自動でポン! となれば準備は楽ですね。

あるフランス人の指揮者は私が英語で尋ねても必ずフランス語の答え、いつまでも打ち合わせが終わらないので、YesかNoで答えられる質問に変えてなんとかことなきを得たり。

私の質問にいつも親切に対応してくださるライブラリアンの先輩方、夜遅くまで残業している私を心配してごはんを差し入れしてくださった練習場の守衛さんや料理上手の楽団員、たくさんの方々に助けていただきながらあっという間に時間が過ぎていきました。

ヴァイオリン奏者ではなくライブラリアンとしてオーケストラに入団したことは、長い間応援してくれていた家族、友人にとっては残念なことだったかもしれません。でもオーケストラでヴァイオリンを弾いた経験はこの仕事にとても役立っています。

私が演奏しているころ、第九の第1楽章第2主題は「レーソファーシ♭ラーミ♭ド」(Breitkopf社に記載)が主流でしたが、今はBärenreiter社の新校訂楽譜に基づき「レーソファーレラーミ♭ド」と演奏することが増えています。

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ただ、指揮者が仮にBärenreiter社の楽譜を選んだとしてもこの部分だけはBreitkopf社に書かれていた「シ♭」で演奏することは頻繁に行われ、その指揮者の提案を受け楽譜を修正し、楽団員に伝え演奏しやすいように楽譜を加工することもあります。演奏者によって楽譜の使い方は千差万別。演奏に集中できる楽譜に近づけることをいつも心がけています。

私がヴァイオリンを弾いた経験が役立つと書いたのは、経験として「シ♭」を聞いたことがあるという偶発的なものではなく、それぞれの楽曲でさまざまな学説、演奏形態が存在することを情報としてふまえたうえで、リハーサルおよび本番の現場で柔軟に対応しなければいけないと体感していることです。「シ♭」と「レ」のどちらが正しいかを学説として追求することはもちろん意義深い。ですがこれこそが音楽学者とは違う、ライブラリアンであることの姿勢であると思っています。必ずしも楽器演奏経験がある人がライブラリアンに適しているということではありません。私は自分が演奏を通してライブラリアンである大切さを知ることができただけで、他のアプローチもたくさんあると思います。

メトロポリタン歌劇場(以下:MET)で研修を受け、楽譜をオーケストラ・ピットに置いた後、私が劇場の中にいられることがとても幸せだと話したら、"Librarians are involved in Music"と素敵な笑顔で答えられた。私の拙い英語力では訳しきれない、ただライブラリアンは音楽の中にある、音楽の一部だと感じられたことが本当にうれしかったのです。ヴァイオリンを弾いている時、協奏曲よりも室内楽やオーケストラ作品の方が歌うことができました。ご縁があるならこれからも楽譜の中で楽しみながら音楽を奏でたい、そう思っています。

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心から尊敬するMETチーフ・ライブラリアン ロバート・サザーランド氏とライブラリーにて

このネットTAMをご覧の方の中には自分の生き方を模索している方がいらっしゃるかもしれない。たとえ夢破れたとしても、自分になにができるのか社会との関わりでもがいていても、取り返しのつかない大きな失敗をしたとしても、これまでの自分を活かし前に向かって生きていくことができる、そんな道が見つかることを心から願っています。

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

ここまでオーケストラ事務局の5名の方にコラムを執筆していただきました。通読いただいている方の中にはちぐはぐな印象を持たれた方もいらっしゃるでしょうか。各人がそれぞれ異なる方向から、心を込めて尽力している、というような。

専門性というものは一面では、分かり難い・・・・・という印象にすぐに繋がってしまいます。オーケストラ事務局はこの「分かり難い印象」に日々挑んでいますので、こうした場をいただけて、執筆者の方々にはご苦労をおかけしましたが、とてもありがたく思っています。

*:「ミミにイチバン!オーケストラの日(3月31日)」の開催など
http://www.orchestra.or.jp/orchestraday2018/

沖さんの今回のコラムはライブラリアンの仕事の一端をわかりやすく伝えてくれました。前回の井形さんは事務局長の、前々回の桐原さんはアウトリーチの、などと5名の方はそれぞれ仕事の一端を情熱とともに伝えてくれています。

この場では5名の方だけでしたが、一つひとつを紐解いてみれば、一つひとつに共感していただけたのではないでしょうか。

まだまだオーケストラ事務局にはさまざまな仕事があり、バラバラのような一つひとつが奏でられ機能したときにシンフォニーが立ち上がります。それぞれが複雑に進化してきたので、現代のオーケストラにはやはり指揮者が必要です。事務局では楽団長が指揮者の役割も果たしています。このリレーの最後に、オーケストラを導いていく楽団長にバトンを託したいと思います。

楽器を持たずシンフォニーを奏でる、オーケストラ事務局の人々 目次

1
オーケストラの事務局

2
オケ裏生活30年
3
街と響きあうオーケストラ
4
人生も、オーケストラも
5
楽譜の中の音楽
6
人と人をつなぐオーケストラ
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