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文化装置分別のススメ

 はじめまして、甲斐賢治@大阪です。
 よろしくお願いします。

 今回のコラム、ちょっと変わった展開です。

 僕は、いま大阪で、ふたつのアート系・文化系NPOに関わっています。[remo/NPO法人記録と表現とメディアのための組織]と、[recip/NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト]です。

 remoでは、1990年以降のパーソナルコンピューターやビデオカメラの高品質低価格化により膨大に広まった映像での表現を中心に、「個人とメディア」のキーワードをもって活動しています。ここでは、独自のメディアリテラシーを置き、「映像によって知る力・映像で表現する力・映像を真ん中においてみんなで話し合う力」の3つの力を実践できるよう事業が組まれていて、同時に、「現代美術」から「文房具としての映像」までを含む、多様な価値観で「メディア」そのものを捉えようとする組織です。それらの動きの足下に共通して流れる問題意識は、マスメディアがあまりにも影響力を持つここ日本において、日常的に触れる機会の多いテレビや映画も含めた映像表現やその他のあらゆるメディアとの関わり方に対し、受け身な身体でいることは、好ましい状態ではないように思える...そこで、いかなる立場の人であっても、より能動的に映像やメディアそのものと関われる場をつくろう、そこで、新しい試みを常に持つアートの力を思う存分発揮してもらおう...と日々、少数ですが骨のあるスタッフを中心に奮闘しています。

 一方、recipでは、行政や教育機関との連携でつくる美術に関するフリーペーパー、身近なところでなされるアートプロジェクトなどの文化情報を知らせるケーブルテレビの番組、同様のウェブマガジンなどのこれまた「メディア」を運営しています。でも、それだけじゃなく、プロジェクトそのもののマネジメントや、終わると跡形もなくなるプロジェクトをあらゆる手法を用いて記録するためのチーム[psp/project scanner program]を、さまざまな学問分野の専門家、技術者、社会人、学生、ボランティア、アートマネージャーなどのあらゆる立場の人々と力を合わせ、調査対象となるプロジェクトごとにシステムを変えつつ、運営しています。ここでのキーワードは、「地域とメディア」です。大阪がそれなりの規模の都市であるためなのか、グローバルなニュースがメディアを介し送られてくることはあっても、逆に地元の生々しい情報を知ることができない現状があります。その解決をはかるためにもあらゆるメディアを活用して、地域の情報を地域に戻すよう事業展開しています。それは、少しずつでもそういった情報の循環ができれば、「文化の地産地消」とでもいうような、「地元の人が知ってる・応援してる、地元の文化活動」としての表現活動、そしてさらには、アートが現れてくるのではないかと思うのです。

 では、そんな活動を、このコラムの軸となる「アートマネジメント」という考え方からみたとき、いわゆる「作品」や「公演」という成果物だけにとどまらないわけだし、そんな役割が「なぜ必要なのか」もしくは「なんでやってるの?」って、思う向きもあるように思うのです。
なので、以下に...ここからコラム。

 なぜ、アートなのでしょう?
 なにが、アートなのでしょう?

 きっと、十人十色。いろんな想いや意見に分かれることでしょう。おそらく人それぞれに、イメージし、口にすることが相反していたりもすることでしょう。つまりは、見方が揃わず、決まった正解のない世界がここにあります。僕はこういった状況をつくってくれる場のことを勝手に「異化装置」と呼んでいます。その逆として、ごくごく一般的な「クラブ」などで見られる風景では、同じ系統のファッションに身を包んだ人々が、力強いビートにみんなで身を任せ、心地よい時をいっしょに過ごします。また、とある「劇場」では、いわゆる水戸黄門のようなドラマによって、観客の気持ちをみんなまとめて、きちんと同じ場所に運んでくれることもあります。そう言った場を僕は勝手に「同化装置」と呼んでいます。

 僕には、「異化装置」が必要です。それは、作品そのものや作品から投げかけられた何かや、ひょっとすると作品の背景にあるコンテクストによって、これまでの自身の感覚や考えが突き放され、途方にくれる機会であり、同時にその作品を囲む人々との会話の中で、その観点に驚かされ、感化される機会でもあります。つまりそれは、自身にとっての外界である他者との出会いであり、その他者との違いを知ることで初めて自身を知ることができる機会であるのです。僕の外界である、普段知っているはずの日常のあらゆるものごとを含む風景が、突然違って見えるきっかけとなる場所や機会。それが、「異化装置」です。

 ほんのもう少し、その差を具体的にしましょう。「異化」という機会による成果を考えてみます。それは、「君と僕は違うんだ」と言うことの発見です。したがって、そのための場である「異化装置」とは、「異なっている」という事実を許容し、それを前提とした場であるはずなのです。ということは、その場に過ごす人々の振る舞いは、「異なっている」ことが精神的に認められているわけですので、本来ならば飾ることなく、自身のままでいることができます。さらには、この「異なっている」という事実の前提があるからこそ、他者の価値が改めて立ち上がってきます。言い換えるとコミュニケーションをとる必然が出てきます。とある作品が、一般通念としての「花」のイメージである、やさしい、きれい、かわいい...などの印象を覆し、スピード感にあふれ、かつ牧歌的で、さらには暴力的な「花」のイメージを明確に提示していたとしたら、僕はそこに僕の知らない「花」を捉える概念に出会うことになります。そのイメージを、身近な他者と共有し、「対話する」必然もここに同時に立ち上がってくるのです。

 「おい、あれ、どう思う?」
 「いやぁ、なんか凄いなぁ」
 「でも、あの感じ、私、少しわかる気がする」
 等々。

 こういった、個人差を認める場が、「異化装置」なのです。

 これに反して、「同化装置」での成果とは、「同じであること」の発見となります。それは、同じであればあるほど、熱を帯びてくる世界です。ただ、ここに問題がちらりと見えてきます。それは、同時に「違うこと」を阻害する動きへとすぐに発展するという事実です。極度にジャンル分けされた「クラブ」に行って、浮いたファッションであった場合、その阻害はあきらかです。いいかえると、仮にもしその「クラブ」に、演歌好きの年配者が半分以上を占めた場合、そのクラブの「同じであること」は不成立となり、同化装置の意味をなさなくなることでしょう。

 そんな「異化装置」と「同化装置」をひとまとめにザックリ言うところが「文化装置」であると考えています。あるいは、「文化装置の中には異化系と同化系がある」もしくは、「今日の文化装置は、異化系だったね(笑)」とすればいいのかも知れません。ここでいうそんな「異化装置」の代表は、劇場、美術館、ギャラリー、アートセンターなどなど...です。そこでは日々、比較的多くの「見たことのないもの」との出会いが来場者に提供され、それは、大小の差はあれ常にショックであり、来場者の中にすでにある価値観に影響を与えようとします。(あいにく、そうでない時も多々あるのですが...。)

 で、僕の仕事は、そういった「異化装置」にまつわる仕事です。ここでいうところの異化機会が少しでも多く設定されるように、またそんな情報が、少しでも広く行き渡るようにする仕事です。ですので、いかなる人でも自身でメディアを活用し、表現できるようになる方が良いし、そういった情報に少しでも早くアクセスできる方が、いいんじゃないか...と思う次第です。つまりは、「アートマネジメント」という仕事を、施設のあるなしにかかわらずあらゆる「文化装置」と社会の接点の役割を担う仕事として考えてみた場合、いま目の前にある、まさにマネジメントしようとする対象が、この社会において、どういったものなのかを考えることが必須となると思います。ジャンル分けされた呼び名、現代美術や、演劇など、そういった名称はそれはそれでおいといて、またぜんぜん別の視点や目線の軸が必要となるのではないかと思います。

 remoや、recipでは、そういった目線をできる限り、独自にかつ意識的に持ち、日々活動するよう心がけています。全国の皆さん、どうぞ今後ともよろしくお願いしますね。

(2006年3月1日)

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

今春、立ち上がった全国の文化・アート系NPOをネットワークするNPO…アートNPOリンク。その事務局の主要なスタッフである樋口貞幸さん。若いにもかかわらず、しっかりやる好人物。このままいくと、鼻高々にもなりかねないけど(笑)、そこは周りを取り囲む大人たちが見逃しません。ひょっとすると、日本のアートにまつわるNPOの権利を獲得する上でも、重要な動きのひとつとなりうるリンクの活動もこの人物にかかっているのかもしれません。そんな彼が、いま一体何を考えているのか。リラックスしつつ暴露してほしいな、と。

>樋口さーん、よろしくお願いしますー。
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