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水平構造と垂直構造

 私は現在、京都の寺町通りにてアートマネジメントを行うCOMBINEというオフィスと主たる取り扱い作家の実験的エキジビションを行うBAMI galleryと名づけたギャラリー運営を活動の拠点としております。ご存知のように京都は美大・芸大が多く、私が現在取り扱いをしている作家も20代~30代の京都在住の若者が中心であり、彼らに当方のギャラリーにて実験的なエキジビションを行わせ、インターネット(SNS)やメディアへのリリースを中心にその詳細を伝え反応を見るなかから百貨店美術画廊の企画へ連動させたり、現在は少し中断しておりますが海外のアートフェアへ出展したり、また、各作家個別に来る多種にまたがる依頼案件など(国内外)を先述のCOMBINEと名づけているオフィス機能を中心にマネジメントおよびビジネス活動をしております。

 今回ご紹介いただいた大隅秀雄さんとは、当方(COMBINE)が企画した百貨店ではまれなキネティックアートの個展を快諾していただき、昨年末、高松天満屋という四国の百貨店美術画廊で一緒に仕事をした間柄になります。

 私の活動はビジネスです。所謂世間一般が指し示すアートマネジメントという文言の意味と不一致するかもしれませんが、私の考えるアートマネジメントとは経済的側面を兼ね備えたビジネス活動としての概念になります。それは作家も我々も含めてであります。つまり芸術活動を支援するという旨は同義ですが、その手法は1人の作家の作家活動を恒常的なビジネスとして成立させることにより、その先に初めて芸術活動の支援という実際の形が客観的に生まれ、その結果、所謂人々へ広範に作品を提示できる機会やその作家・作品からより多くの共感を生み出すということにつなげることができると考えております。公的資金や企業からの公益性に適う資金拠出を元に泡沫的(コミットメントのない)大・小規模のイベントをマネジメントするという意味ではありません。

 なぜ、私がこのようなことを書くのか? と言えば、現在私の周りには10名前後の私が選択した若い作家たちが日々出入りしており、その者たちを当然私は商材として扱うわけですが、彼らの側から私が彼らの先行きを見るにつけ、また私自身の先行きを見るにつけ、一番感じるのは、作家として成り立つというのはいかなるものなのか? という点に集約されます。少し乱暴かもしれませんが、ある意味簡単な結論に帰結すると思います。作家が作家として成り立つには生計がそのことによって生み出されるということ以外にはないと考えます。有体に言えば、短絡的かもしれませんが作品が売れるのか、もしくはその類まれなる才能を公的にも私的にも見せることを依頼されることによって、金銭を得るということしかないのではないかと考えます。当然細かくはもっとあるかとは思います。しかし、作家という存在は、作品というものがあくまで主体であるということが中心であり、その作品が持つ経済的な価値と考えます。異論は多々あるかとは思いますが、曖昧模糊とした定義を挿入しても、結果先述の生計が成り立つや否やという部分の答えには相当するわけでないことは自明の理として理解いただけると思います。また、私は日々接する若者たちにもこのことを明確に伝えています。

 つまり、売れなければ君たちは作家として成り立たないし、私も成り立たない。

 では、売れるということはどういうことなのか? 売れるということは商材の性格を考慮したうえでの絶対的な額に対しての相対的時間の評価であると考えます。つまり数億円という規模の売上があったとしても、それがどの程度の時間にて出来たものなのかによって評価は変わります。これは売れたという現象面の単純な相対的考察ですが、ではなぜ売れるという現象が現れるのか? と考えれば、それは需要と供給のバランスに尽きると考えます。つまり需要が供給面を大きく超えた場合、加速度的に時間という評価は上がり、結果、売上額も伸張するということになると考えます。

 また結果としての売れたということは、単純に2つの構造に分かれると考えます。

 安価なものをたくさん売るのか? 高価なものを的確に確率良く売るのか? ということになると思います。

 では、芸術作品を売るという行為にこれらを置き換え考えた場合どうなのか? ということになりますが、一般の流通品目の通念から比較して決して安価なものという商材ではないことは確かだと思います。ゆえに世間一般から考えれば高価なものを的確に売るということになります。確かに日用品などと比較しても日々売れるものではないわけであり、そういう意味では一般からすれば高価なものを的確に売ることにより成り立っているという評価になるのだと思います。しかし、芸術という市場の枠組みのなかだけで考えれば、若い作家から巨匠という幅は、安価なものから高価なものという上記2種が存在することは否めません。

 芸術市場に絞りこの2つの構造を考えると、若い作家もしくは安価な作品を売るということは、流通側面から考えれば、短時間に多数を売らなければ売れたという結果にはなりません。また高価な作品が売れたということになるには、ある一定の時間内にて的確に売れたという結果を残さなくてはならないことになります。高価なものがある一定の時間に多数売れた、これは間違いなく売れているということになるかと思います。ここで単純にその相対的判別は何かと問えば、それは点数という項目ではなく結果としての金額になるのだと考えます。安価なものであろうが高価なものであろうが一定の時間のなかでいくら売れたのかということが大事な要素となります。またその為にどのような手法が必要なのかということが重要になります。

 現実的に考えた場合、唯一無二の作品(版画を含む複製品を別にして)、若い作家もしくは安価な作品を、ある一定時間にたくさん売るということは可能なのだろうかという疑問に突き当たります。確かに何人も並列化して展開すれば、1人当たりの負担は軽減され、結果としてビジネスを行う側は享受できる売上が望めるかもしれないが、1人の作家を考えた場合、そういう行為の連続性のなかでは、金銭的な意味も含め、作家としてもあらゆる意味で成り立たないことは単純に理解できます。仮に比較的売れる1人の作家で考えた場合、待ち受ける結果は作家にしてもビジネス側にしても過酷な労働集約でしかないような気がします。もっと言えばその環境下で果たして良い作品が恒常的に多数生み出せるのか? という根本的な問題に突き当たると思います。

 このことから考えても最初から高価な作品ということはあり得ません。よってまず訴求のための手法として安価販売は避けられませんが、しかしこれは決して目的ではなく、いずれ価格が上昇するというための初期手段というのが本質ではないかと考えます。極論かもしれませんが、その起点としての考え方がマネジメントとしては重要なポイントであると考えます。
 まさしく作家が成り立つという先述の意を形にしていこうと思えば、必ず作品の価格が上昇することを前提に考えなければ成り立たないということになると思います。また、これは、その価格上昇に対して適正な需要が生み出せない、あるいは需要に対しての適正な価格上昇が生み出せないと単純に価格が高いだけでしかなく、実質流通していないという結果になり、これは成り立っているとは言い難くなります。

 所謂、国内発表価格というのがあったとしても売れていない…こういう方はこの10年多い? 否、ほとんどがそうではないでしょうか?

 大卒の初任給が20万円と仮定して年間で240万円、報酬として年間にこの額を稼いでいる作家は国内で何人いるのか? そしてこれは報酬という原価(コスト)なわけであり、流通上の売価というのは最低でも1.5倍~2倍、流通上の複雑な構造においては別のコストが必要であり、1.5倍以上の倍数がかかる状況があります。そうなると“売れる”という結果を残すためには最低でも数百万円という売価の結果が必要なわけです。そしてもっと言えば、描いたものが全て買い取られるか、もしくは売れるという状況からのこの数値であり、確率が加わると制作数はその報酬の数倍必要となります。元に戻り再度考えると、これはまだ働き始めた社会人1年生の報酬との比較であり、この比較から考えるわが国の芸術家の収入面はある意味悲観的にならざるをえないのが現実ではないでしょうか?

成り立ちますか?

 また、わが国の現在の経済状況で、芸術作品に対して若い作家からその他大勢いる作家にまで行きとどくほどの支出・消費があるのでしょうか? 特段の刺激策もない市場性のなかで…

 日用品のように多くの需要がない、また、悲しいかな需要者が限られたその性格を考えれば、販売機会の創出は限りなく少ない。その状況で生計までも成り立たせるということを考えれば、機会の少ないなかで、確実に売るという多売ではないなかで、物事を考えないといけないということは単純に理解できます。そしてその金額は高くなくてはならないということも、あわせて理解できると思います。

 1人の作家の生活コストの側面からの成り立ちという意味での考察と、ビジネス側の利益側面からの成り立ちという考察も当然あると思いますが、ここではあえてビジネスという側面、つまり恒常的利益追求を命題とする側面からの考察を主軸に考えております。

 つまり、緩やかか急激かは別にして価格が上昇するという前提があり、その根拠として供給に対して需要が超越する局面が生まれるということが重要になると考えます。芸術作品がインフレ商材であるということはこのことからも理解できると思います。今買わなければという切迫感が生まれることにより、価格面も需要面もバランス感覚が保たれるという構造です。いつでもどこでも、というコンビニエンスな商材では安くなるのを待つというデフレ傾向しか生み出せず、結果、先ほど来より書いている状況は皆目姿すら現さないことは理解できます。

 では、作品の価格とはどのように生まれ保守され、あるいは価格伸張が起こるのか? ということが気になります。そうは言っても、現実、わが国には先ほど来より書いている、成り立ちの体現者が存在します。加えて言えば、一般の社会人の遥か彼方の収入を得ている作家も存在します。そこから考えればその成功者の成功例、多種あるかとは思いますが、ある程度を体系化すれば、その成功例は類例化できると思います。ならば、それを模倣すれば一番早い、我々もそれに沿って若者をマネジメントすれば良いのだと考えられます。
 しかし、本当にこれから先、これまでの成功例が果たして通用するのか? という疑問がこのコラムの主たるテーマとなります。逆に言えば、これまでのやり方では上記に指し示すような状況、つまり作品価格が伸張するという作家にとって不可欠な要素が生まれにくいと私は判断しています。

 国内の作家の価格は、若い作家の作品に限って言えば、これはある意味本人もしくはギャラリー側の主観および恣意的要素を中心に決められると考えられます。当然、売れるという前提に立つという条件になるかとは思います。では、その枠を越える価格とはいかなるものか? これがすなわちこれまで国内の主流となっている価格決定になるかと思います。つまり若い作家という枠内は市場性がないことの証左であり、相対化されていないということになります。逆にこの枠を越えると客観的な相対感覚が求められます。ではその分水嶺とは、さまざまな感覚があるかとは思い独善的ではありますが、ある一定の要件における作品価格が50万円以下、それが目安となる対象ではないかと思います。しかしこの50万円という線を越えると、その価格根拠の説明が当然必要となります。なぜその価格なのか? それを端的に説明することは、すなわち、作家本人以外の人間との比較ということが一番明確な差異を示す根拠となります。

 ある程度の基準値が設けられます。有名作家から順にピラミッドが構成されます。頂点は数千万~数億円、そこから順に価格は下がり、基準となる有名作家がその価格階層を支える各価格帯構造の中に存在します。その基準値となる作家と当該作家の差を明示します。
 この差とは正直、情緒的なものです。賞歴、絵画団体での地位また賞歴、年齢、経験、諸々が要素としてあげられます。この諸々の要素を踏まえ、国内作家はある種ピラミッドの中に自らの位置をつかみます。逆説的に言えばピラミッドの頂点が高嶺でなければ下の階層は安くなります。つまり頂点との差、距離が価格根拠です。ここで理解していただきたいのは、これは全てではありませんが、大凡がこのような構造の中で形づくられるということです。そして、この構造には、売れている、売れていないという要素が優先順位として最上位を占めていないということがあります。もっと言えば、作品内容も要素としてはありません。優秀な作品と駄作という質に対しての価格判別もありません。基本は面積に対しての評価額がこの価格ピラミッドの数値的根拠です。

 極々まれにこのピラミッドの位置と乖離する価格伸張をともなう作家がいます。当然これは市場における相対感覚のなかに身を置いているわけで、需給の関係の高度なバランスが生まれているわけです。またこの説明はコンテンポラリーアートを別にしています。あくまで国内の芸術市場を高い割合で寡占している経済的な状況の説明です。

 さてここで一番問題となるのはピラミッドの頂点、その価格の根拠は? となります。確かに下の階層との比較での説明もあり得ますが、しかし絶対額としての価格根拠は? 数千万、数億円という現存作家としての頂きにおける根拠、またはその担保とは何なのか? ということへの疑問が一般にはあるのではないでしょうか?

 これは斯界における立場または勲章ということになると思います。国内には相応の勲章が存在します。ある意味国がその世界の中で余人に変えがたい唯一無二の存在と言うことへの担保を与えます。この関係性が国内における最たるものであり頂きとなるかと思います。そこからさまざまな要素によってピラミッドは構築されます。

 これが良いか悪いかは正直私にはわかりません。日本の戦後の芸術市場は厳然とこのような体系であることは間違いないでしょう。ピラミッドの頂きに向かう要件は当然その作品内容があってこそで、政治的な駆け引きが主要因ではないと思います。皆が納得するものでなければ瓦解することは明白であり、その意味でもこのピラミッドを否定して成り立つという確率は低い? もしくはこのピラミッドこそが作家として成り立つ道程とも言えます。厳然と組織化された場所にその位置を求めることもあれば、そこから離脱、距離を保った独立志向もあるでしょう。しかし、国内全体に大きく一宇される環境においては全て包含されていると私は感じます。また、この道程、作家としての成り立ちにはそれなりの時間、年功というものも存在します。また漠然としてはいるものの、ある種の同一世界という組織感覚とそこから生まれる人間の関係もあるでしょう。

 良いか悪いかわからないと先に書きましたが、それとは別に違和感は存在します。最初に説明した、売れるとはいかなるものかという定義とは著しく乖離します。

 “商材の性格を考慮したうえでの絶対的な額に対しての相対的時間の評価”とは全く別の次元で価格が決定されていく。また需給の関係性も脆弱極まりない。冷静に考えれば、そういった普通の流通上の経済感覚と相容れない雰囲気があることは間違いないでしょう。売れないものは値が付かない、売れるものは値段が高騰する。またそれらの動態は固定的ではなく流動性を孕むという極々当たり前の風景が存在しない。これは当然、売る側の売り方もこのピラミッドに即したものでないと保守出来ないことは確かだと思います。このピラミッド構造を瓦解させるような流動性は問題視されます。なによりも、そういったことを仮に具体的行動として求めた場合、現行の価値根拠に対抗するものが一体何になるのか? という説明が出来ない、自家中毒に似た現象に陥ることは明白であると考えます。つまり作家も売り手も全てこの世界の中で完結してきたのがこれまででしょう。ある意味、硬直化した市場性であり、実力とは別の要件を大事にする“護送船団型”と呼んでもおかしくない構造と言えるのではないでしょうか?

 しかし、私は2000年を境にこの日本の“護送船団型”の市場が大きく変異したと感じています。その契機となったのは、村上隆というコンテンポラリーアーティストの登場であると考えます。村上氏の来歴を私がここで述べる必要はないのですが、只一点、彼の登場とこの私のコラムの重要な接点はその価格という点です。彼の存在が一般にまで訴求した一番大きな要因は、ニューヨークのサザビーズというオークションハウスにて、その作品が大凡7千万円という額、また後にはアジア最高額の16億円で落札されたというニュースです。ご存知のように彼の作品は、これまでの日本の市場ではある意味理解に苦しむような要素を持っています。しかし、その理解に苦しむ作品が、これまでのわが国の価格ピラミッドを破壊するような額で取引されたという事実が生まれました。ここに大きな変異のポイントが存在します。つまり、今までのピラミッドの構造とは別の価値を我々は見てしまったのです。それはある意味、今までのピラミッドの根拠に対しての疑念が生まれた瞬間でもあると考えます。芸術の市場を世界的な相対感覚のなかで考えれば、当然欧米がその中心であることは間違いないでしょう。わが国の最高峰の芸術家が欧米を中心とした世界市場でいかほどの価格ランキングに位置するのか? その単純な相対感覚をこれまで私たちは考えてきませんでした。つまり閉鎖的(ドメスティック)な市場性のなかで完結してきたわけです。また、そんな相対感覚を必要としなかったというのも事実あるでしょう。単純なことから考察できます。村上氏の示した価格、もしくは欧米市場が彼に示した価格、これは欧米中心という市場を主軸として考えれば、日本でもその価格はある程度の同基準にて示されます。その価格根拠は背景にある市場の大きさからも理解できます。しかし逆に、わが国において現在7千万円で取引されている作家を欧米中心の市場に投入した場合、果たして同様の金額で取引されるのでしょうか? 絶無であるとは言いませんが、しかしほぼこの試行で合致する作家がいないことは理解出来るのではないでしょうか?

 このことから何を感じるのか? 少し乱暴ですが、わが国の7千万円という価値は? また7千万円を担保している構造に疑念を持っても不思議ではないでしょう。確かに欧米と融合した価格である必要がないという論拠も理解します。しかし、買う側の立場に立って考えた場合、その論拠は果たして正当化されるのでしょうか? 先に述べた2000年を境にという部分が非常に重要かと思います。2000年を境に世界は大きく様変わりしました。安易に一般にわたるまでグローバル化という言葉を当てはめようとは思いませんが、しかしさまざまな分野の最先端を示す部分はグローバル化したことは間違いないでしょう。つまり世界においてさまざまな国の市場性が双方向性化し、その基準が加速度的に同一化されたことは間違いないでしょう。特に、私が思うのは、アジアの同一市場化が恐ろしく進捗したことです。これは偏に中国=中華圈という巨大市場が動き出したことを意味します。買う側の嗜好として、当然高いモノには相応の価値を求めます。あえて言えば、これまでの人は良いでしょう、しかしこれからの人は当然この世界市場との相対感覚を間違いなく兼ね備えたうえでその価値を見極めます。

 通貨の基軸が米ドルであるならば、米ドルでの取引の可能性が高いモノほど資産価値としては良いわけです。

 欧米を中心とした世界市場、もしくはアジアを中心とした内国化された同一市場においてその価値にギャップ=交換レートの不整合が生まれることは、すなわち資産価値として毀損を意味します。当然、大きな市場においてその価値がある一定の基準を満たしていることは資産としての安定を意味します。有り体に言えば、その兌換性の多様化です。しかし小さな市場でしか認められない価値は不安定と映っても仕方がありません。需要と供給という最初に書かせてもらった側面からも理解できます。一定の供給に対して需要(市場)が拡大すればするほどその価値は上昇します。しかしある一定の供給に対して需要(市場)の拡大が望めないものは、その価値が相対的に低落することは否めません。

 さて、このような大きな変化が動き出した現在、これからを考える我々としてはどのようにとらえるのが得策なのでしょうか? まずもって作家の成り立ちというものも当然変わります。このような価値創出の変化が顕在化するなかで、これまでの価値構造のなかを歩むということが果たして?? 是なのか??

 村上氏が示した劇的な変化は、これまでの階層を破壊したという言葉1字に代表されますが、それは一体何を具体的に破壊したのかを考えた場合、私はわが国の芸術市場のピラミッド構造の中心を垂直に突き抜けたと考えます。ピラミッドの中心を垂直に突き抜けピラミッドを真っ二つに分断したわけです。これは、これまでのわが国の市場構造とこれからの市場構造の差を明確に示しています。いくらこれまでの市場構造を後生大事に堅持しようとも、世界市場に起こる、ある1つの事象で簡単に破壊されることの証明でもあります。

 つまり、これまでのわが国の価格根拠の破壊もさることながら、価格を上昇させる機能そのものも破壊したわけです。

 確かにわが国の市場は欧米に比べ小さい。そのなかで欧米の作家に匹敵するような価値を保守出来たのはそれなりの売買の機能が存在したわけです。小さい市場のなかである一定以上の安定的金額を保つには、それを守るように売らなければなりません。つまり一対一では当然成り立ちません。どこにおいても、どの状況においても同様の金額で売買結果を残すことが、既成事実として必要となります。需給の関係性を安定化させ価格面での流動性を極力抑えるということが必要になります。護送船団型です。ある意味の横並びの水平構造であり思考です。

 欧米の市場はプライマリー市場とセカンダリー市場という、作品が流通する市場が2つあります。プライマリーは新作リリースの窓口です。セカンダリーとは市場在庫と言って良いでしょう。プライマリーから一度は市場に出たモノが再度環流してくる市場です。原則、新作はプライマリーからしか出ません。と言うことは、出口は一か所です。リリース価格も一定です。しかしセカンダリーに環流した場合、価格は極端な流動性を示します。需要が増大した場合、当然皆プライマリーから購入したいと思考します。しかし需要に対して供給が追いつかない場合、もしくは政策的に供給量を計算した場合、その購買欲の消化はセカンダリーに向かいます。そうなると簡単に言えば取り合いが起こります。その結果価格は高騰します。青天井の場合もあるでしょう。まして現存ではない市場に限られた在庫しかない物故は、その典型的な例になるのではないでしょうか? ここで一番肝心なのはわが国のような構造の担保を必要としてないという部分です。年功、賞歴、団体での地位、勲章…当然そのような事象を戦略的に生み出す商売人のプロモーションはあるでしょう、しかし需要側が納得するものもそこに厳然と存在しなければ、そのプロモーションも成り立ちはしません。

 日本にもプライマリーとセカンダリーに相当する市場は存在します。しかし、どうでしょう? ある作家に対してリリース窓口は1つでしょうか? 確かに近年コンテンポラリー市場における若手作家には上記欧米型市場性作家も登場してきています。またそういったことを標榜するギャラリーも存在します。しかし大半はどうでしょうか? さまざまなギャラリーが取り扱いとして併記しているのではないでしょうか? これは当然先ほどの2つの要因があると思います。価格の安定性を保つ護送船団型と市場の狭小さだと考えます。小さな市場で価格を保つには並列に価格を守る売り方が求められます。また市場および需要が脆弱な場合、販売機会を出来るだけ多く創出し反復する必要が生まれます。多数のギャラリーという窓口にて同一価格にて多くの場所にて提示する、そのことによって価格を保守し販売実績という既成事実を積み重ねるということです。

 これが国内発表と呼ばれるものです。

 このことに関しては欧米でもプライマリーという価格占有権を有する機能があるわけで同一です。しかし、プライマリーは独自の価値基準に従い価格をリリースします。決して市場性を無視した構造から創出した価格という硬直化したものではありません。それは需要者の存在から割り出します。もしくは需要者を創出します。このことに比べ、日本の市場その状況の本質は、欧米と比較すれば、リリース側で価格をコントロールしている、極論ですがカルテルともとらえられます。市場の自由な価格決定を隠滅しています。では、その場合日本のセカンダリーという流動性の高い市場とは? と考えますが、それほど強い需要がないということと、多数の窓口からリリースし多くの場所にて反復販売している状況ではセカンダリーに集まる前に、プライマリーでことが足りるわけであり、価格が高騰するというような局面は生まれません。あるとするならば、逆の局面の性格が強まります。換金性としての市場です。多数の窓口とは販売者側の横のつながりを示します。所謂卸しという機能です。最初の窓口から一般の需要者にわたるまでの利益部分をシェアーし販売者が多数横つながりで結ばれていきます。そうすると過小な利益受益者も存在しますが、販売機会の創出という面は確保されます。全体で言えば売れるという結果を追求した場合、この機能を優先する方が、価格の安定性と市場性は保守できます。あまり一般に知られてはいませんが、日本の芸術市場の販売出来高においてこの販売者間の売買はかなり高い割合であることは間違いありません。つまり日本では欧米のようなプライマリーとセカンダリーの差がない、全く利益追求の構造が違うということが分かります。

 例えば百貨店という窓口も結局この機能でしかありません。果たしてこのような機能下で提示された価格に、また、世界市場との相対性を鑑みた場合、これからの需要者は納得するのでしょうか? 作品を買った人が、それを売るということは日本ではまだ恒常性がありません。日本のセカンダリーの大半は販売者側の交換側面が強いでしょう。そして芸術作品というものへの情緒的憧憬がそういった商行為との融合を良しとしないメンタリティーがあることも間違いありません。しかし、相応の金額との等価、つまり資産価値を考えた場合、この硬直化した構造において活況を呈するようなことが生まれるのか? と疑問を持ちます。それは資産価値に対しての無責任さとも取られかねません。そのことから結果、市場を拡大することは決してありません。それどころか村上氏が示した欧米型の市場構造との融合、市場の双方向性的同一化という状況において全く通用しない状況では、これからの作家・作品・ギャラリストはいかなる方向性を持つべきなのか? を考えさせられます。

 何度も書いてきましたが、成り立つためには価格が上昇するということを前提としなければならないが、これまでの国内の価値観だけでは通用しない変化変異が現在あるということも理解しなければならないということです。つまり、これまでの市場構造における根拠を頼りに考えれば価格は上がらないという結論に至ります。

どうすれば成り立つのか?

 これを私は水平構造と垂直構造の問題と呼んでいます。

 この水平構造と垂直構造の最大の違いは何かと考えれば、市場原理を優先した供給窓口のコントロールということになるのではないかと考えます。これまでの国内の供給は水平に横の展開を指向します。多く露出し販売機会をたくさん設けることによって、また、販売者側の同一志向により価格安定を保って市場に向き合うという、供給窓口の増大という形です。しかし欧米型=世界的標準=市場原理に照らした垂直構造とは窓口の狭小環境により需要を一気にこの狭い窓口に吸い込む形となります。つまり作家は作品の供給を出来るだけ絞り、需要をいかに増大させるかということに集中しないと、今後価格は上昇しないという構造の変化が生まれています。その為にはどうするのか? また、作品の魅力をいかにこの狭い窓口に呼び込むのか? を考えれば、これまでの国内の価値基準構造に順当するような志向は捨てるべきであると私は考えます。

 もっと言えば、過去の経験からも、海外への出口を考えた場合、現在の国内型の水平構造にて市場に流通するものは嫌われます。当然でしょう、すでに広範な形で拡散した作品に魅力はありません。

 私の立場で極端に言えば、1つの窓口にて価値を高める、つまり1人のギャラリストと1人の作家の二人三脚にて大きな市場と闘うことが重要であるということです。作家は作品を、ギャラリストは作家の経済的側面に十分留意しながら成長を描くことを作品化するということに尽きると考えます。今後、日本のギャラリストは、これまでの様な護送船団型ではない、1人の作家との緊張関係を保った単独の航海が必要なわけです。

 最初に書きました、「1人の作家の作家活動を恒常的なビジネスとして成立させることにより、その先に初めて芸術活動の支援という実際の形が客観的に生まれ、その結果、所謂人々へ広範に作品を提示できる機会や、その作家・作品からより多くの共感を生み出すということ」とは、この市場構造の変化への変貌とその対応のことです。今後は、そうしなければ高い次元で作家が成り立たない=ギャラリストも成り立たないということの現れであると私は感じています。

これまでのことに頼るな!

 現在、私は私の周りにいるごくわずかな若い作家たちにこのことを徹底的に伝えています。では現実的に私が形に出来ているのか? と言えば正直、全く出来ていないでしょう。私自身が成り立たない公算の方が大きい現実かもしれません。しかし、私はこの考え方に従い彼らのこれから先を見据えています。同様に私自身の仕事の有り様もこの考え方に沿っています。これまでのような国内完結型ではない…市場は地続きなのであり、門戸は開けるのではなく、既に大きく広がっているのだと……‥

 2000年あたりに登場した村上氏の劇的なパラダイムシフトの兆し、それからすでに15年近くたちます。この15年近くを見ていると確実な変化が随所に現れています。これまでの権威、権力、価値の変貌・毀損、ここからはもっと変化するだろうと思うのと同時に変化しなければならないと考えます。いつの時代も変化は必要です。しかしこれまでの権威・権力、価値が変化を促したとしても本質的な変化とは成り得ません。因習姑息なものを打破しなければ真の革新とは成りません。

 いつの時代も新しい世界を切り開くのは“若者”たちです。年寄りが変える世の中などあり得ないのです。

 私が、私の周りにいる若者たちに真に伝えたいのはこのことかもしれません。

(2014年1月23日)

今後の予定

2014年2月~4月
BAMI gallery 釜匠works

2014年2月
松本央 洋画展(高松天満屋)
※2/4まで

2014年4月
powan powan 佐野暁・公庄直樹 二人展 予定
(あべのハルカス近鉄本店)

2014年5月
釜匠 洋画展
(松坂屋名古屋店)

2014年10月
八木佑介 日本画展
(松坂屋名古屋店)

関連リンク

次回執筆者

バトンタッチメッセージ

2008年、COMBINEを立ち上げるにあたり最初に出会った作家・釜君。インターネットのとあるサイトの片隅にわずか1点小さくUPされていた彼の作品を見た瞬間に”この子だ!”と強烈に引きつけられました。

連絡先が見つからず、出身大学、出品コンペの主催者、友人のブログ、さまざまに連絡し1か月以上後にやっと出会えた彼。深夜まで2人で語り合ったあの日から約6年。

毎年着実に成長を遂げてくれている、我がCOMBIENの有望な作家です。

現在は5月の松坂屋名古屋店での第2回の個展へ向けて制作中であるのと、現在当方で調整中ではありますが、夏から秋に向けて台湾・台北での個展を計画中。

そんな彼の熱いメッセージをご期待ください!
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