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その一瞬のためにひとびとはつどう

~宮城県女川町での試み~


出島遺跡から見る日没予想CG(海子揮一氏作成)「©2014 GoogleEarth, ©2014 DigitalGlobe」夏至日の石投山(拡大)

 ここ10年ほど、私は日本やアジアの水辺に強い関心を抱き、宮城県の女川町をはじめさまざまな場所を訪ねてきました。私のもともとの専門は都市研究です。とくに繁華街の文化やそこでの感染症予防について長らく考えてきました。具体的にはHIV/AIDSや梅毒、結核といった病気をどう予防するのか、また感染が判明した人々を社会全体としてどうケアするのかといった事柄が研究テーマになるのですが、それらの課題は現在の社会が構造的に抱く問題と深く関係しています。例えばそれは、HIV/AIDSの場合は性的少数者に対する社会的排除や偏見であり、結核であれば経済的格差です。私自身、現在の職につく前に数年間HIV/AIDSの予防に取り組むNGOで働きましたが、その間、常に考えていたのは私たちが生きる現在の社会、近代社会の閉塞感についてでした。私は現場で日々働きながら、社会の行き詰まりが看過できない段階に至っているのではないかと感じていました。自らの生きる社会に漠然とした疑問を抱くそのような日々のなかで、やがて「水の文化」について考えるようになりました。

 この日本列島弧では現在、毎年数万人の人々が自殺し、格差が拡大し、マイノリティや弱者に対する差別や偏見が社会を覆っています。近代社会は「定住」「固定」「競争」「蓄財」「相続」「領域」といったイメージですが、水の文化は「流動」「周縁」「変形」「移動」「分配」「脱領域」といった言葉で表せるかもしれません。近代社会のただなかにあって、水の文化はほとんど滅びかけていると言っていいと思いますが、その開かれた有り様は私を強くひきつけました。水の文化を考えることで、私たちが日々生活するこの近代社会を、別の観点から見ることができるかもしれない。私たちが生きるその場所の、別の可能性を見つけ出せるかもしれない。そう思ったのです。そして学問的には、そのような水のイメージは単なる想像の産物ではなく、日本列島弧の海洋民の文化に、数千年にもわたって深く根ざしていたことも知りました。谷川健一や柳田國男、折口信夫(しのぶ)といった先達が、水の文化の文明論的な可能性についてすでに体系的な思想を編んでいることも私を勇気づけました。日本列島弧の歴史を巨視的に見渡すとき、そこには海洋的な文化から陸的な文化への覇権の変遷が見えます。近代の閉塞はその先に現れます。原始・古代から、黒潮をはじめとした諸海流や瀬戸内海などの内海、近海、沿岸、河川を通した大陸や沿海州、朝鮮半島との海洋交流は非常に盛んで、その有り様は近代国民国家を基準にしたアジアのイメージをはるかに超えてダイナミックです。そして女川は、すぐ近くに金華山という海上の聖なる島があることからもわかりますが、水の文化の場所として非常に重要なのです。

 3年ほど前から私は一般社団法人対話工房のみなさんと共に女川町の文化的な来歴を調べています。震災後、女川町でまさに「地に足のついた」地道な活動を展開してきた対話工房の皆さんや、そこにあつまる地元女川の人々、そしてまた女川町が好きでここにやってくる多くの人々に出会うなかで、私は「この場所」に対する人々の思いに、深く心を打たれました。人びとが「この場所」に抱くこの深い愛情を、何かのかたちにできないか。おそらくそう思ったのは私だけではなかったのでしょう。「うみやまさんぽ3《夏至》出島(いずしま)キャンプ」が行われた背景には、そんなみなさんの「この場所」への思いがあったように思います。

「うみやまさんぽ」での塩づくり

 出島(いずしま)は女川湾の東側にある島です。女川で調査をはじめてしばらくたったころ、ここに縄文時代の配石遺構があると聞きました。わたしはその位置が天体の動きと関係があるのではないかと考えました。それは単なる想像ではなく、過去の多くの研究がそれを示唆していました。1931年に秋田県で環状列石が発見されました。いわゆる大湯環状列石ですが、1956年に川口重一によってこの遺跡が夏至を意識していると指摘されました。秋田県埋蔵文化財センターの冨樫泰時はその指摘をもとに実際に夏至の日に現地に立ち、その結果「やはり計算通り、これは間違いなく、こういうことが成り立つんではないか」(小林達雄他『縄文時代における自然の社会化』雄山閣出版、1995、33頁)と語っています。英国のストーンヘンジ(3400年前)も夏至を意識しているとされますが、国内の他の縄文遺跡でも夏至、あるいは冬至の日没位置と配石や埋葬に関係があることが明らかになってきています。また海上移動においても地形と天体は重要な目印になりますから、天体の運行は海の文化とも関わりが深く、海洋文化が残る場所にはしばしば、月や太陽、星々と関係する文物が残されています。そしてそのような文化的系譜は非常に古く、小田静夫は青森県三内丸山遺跡から南洋産の巻貝である「いもがい」を模した土製品が出土していることから、数千キロを船で移動するような遠洋航海が、少なくとも5000年以上前にはすでにあったと推定しています。当時の人々は天体を見つめ広大な海を渡りました。星々の配列、潮の干満と月との関係、太陽の没する場所が一年の間にどう移ろうのか。それらの動きと自らの生存が深く関わっていることを人々は感じていたのでしょう。近代以前の日本列島弧において、冬至は衰退する太陽が復活に転じる極めて大きな意味を持つ日でした(逆に夏至は太陽が衰退に転じるという意味で重要な日です)。これらの情報を考えあわせ、私は出島(いずしま)の配石遺構と天体との関係を想像し、皆さんにお伝えしました。

夏至の日の出島遺跡

 それから数日がたったころ、対話工房の海子揮一さんがグーグルアースでのシミュレーション結果を知らせてくださいました。その結果は驚くべきものでした。女川の漁師さんは海上にいるとき、石投山(いしなげさん)と大六天山(だいろくてんさん)という特徴的な山を見て、その見え方から今自分が海上のどこにいるのかを確認していたといいます。その意味でこの二つの山は漁師さんにとって、女川の海の文化にとって生命線とも言える重要な山なのですが、海子さんのシミュレーションによると、出島の配石遺構に立ち夏至の日没を望むとき、太陽は石投山の真上に没し、冬至の日没を望むとき、太陽は大六天山の真上に没するというのです。「実際に夏至の日に配石遺構から日没を見てみよう」。「うみやまさんぽ3《夏至》出島(いずしま)キャンプ」はこうして企画されました。私も参加した今年のキャンプでは、残念ながら悪天候のため、肝心の日没を確認することはできませんでした。しかし多くの人々がこの企画にかかわり、かつて出島の重要な産業であった火力製塩を体験し、たき火を囲んで島の方々と語り合いました。

出島遺跡から見る日没予想CG(海子揮一氏作成)「©2014 GoogleEarth,©2014 DigitalGlobe」
写真上:冬至日の大六天山、写真下:夏至日の石投山

 日没の一瞬をみんなで「待つ」。
 その一瞬のためにひとびとが集まり、場所への思いを語る。
 それはかけがえのない時間でした。

 私の仮説はあくまでも仮説です。配石遺構を築いた縄文時代の人々が実際になにを想っていたのかは、知る由もありません。しかしこの仮説をひとつのきっかけとして、女川に思いを寄せる人々が集い、この場所への思いを語り合い、女川にまつわる新たな物語が生まれるとするならば、それは極めて創造的でアーティスティックな出来事だと思うのです。私自身は社会学者ですが、女川での試みには本当にさまざまな領域の人々が関わっています。「さまざま」の内実は専門性であったり、特技であったり、女川への強い思いであったり、まさにさまざまです。私自身はこのような多様な人々の連携の大切さと、そこから生み出される実践のもつ、ラディカルな創造性と未来を切り拓く可能性を、今あらためて実感しています。

永清寺(出島)の土井住職とトークセッションにのぞむ筆者と小山田徹氏

※写真はすべて海子揮一氏(対話工房)提供

(2014年11月27日)

ネットTAMメモ

 第6回でご登場いただいた対話工房さんは、女川常夜灯「迎え火プロジェクト」をはじめ、文化的な観点から女川町を見つめるさまざまな取り組みを町の人々とともに行っています。山田さんが協力されている「うみやまさんぽ」もその1つです。山の再生を願う住民と地域の歴史家との交流から始まり、地域固有の文化資源を未来に生かすための調査が行われています。「水の文化」を通して社会を見つめ直してこられた山田さんは、女川の海と山のつながりを紐解くことをきっかけとして、町の未来に向けたこうした活動に継続的に参加されています。

 町の人々や女川に集まる人々が、女川の未来をつくるためにこの土地に向き合い、昔の人々の声に耳を傾け、対話し、物語を生み出していく…。そのなかで山田さんはゆるぎない根拠を見つけ出しているように見えました。そこから生まれる女川の「新たな物語」を、ネットTAMではこれからも応援していきたいと思います。

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