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そして今、自立へ


 「震災復興におけるアートの可能性」第11回は、岩手県大槌町の郷土芸能の1つである「向川原虎舞風虎会」の事務局を務め、震災後に多くの人たちが集う場となった「おらが大槌復興食堂」を立ち上げた岩間美和さんのインタビューをお届けします。食堂が2013年12月19日に閉店すると聞き、行かなければという思いに駆られたネットTAM運営事務局は、たくさんの出会いとつながりを生んだ「おらが大槌復興食堂」を訪れ、岩間さんにお話を伺いました。祭りや郷土芸能が生活のなかに戻ることがどんな意味を持ち、食堂がどれほど多くの人のよりどころとなっていたのか、岩間さんの語り口調とともにお伝えします。(ネットTAM運営事務局)


 向川原虎舞に入って8年ほどですが、初めは郷土芸能に興味はなかったんです。きっかけは、娘が「お祭りに出たい」と言ったことでした。当時向川原虎舞の会長で、職場が隣同士だった1つ上の先輩に頼むと「いいよ、その代わりお前も手伝え」と。このあたりは先輩の言うことは絶対です。参加したら、これは見るものじゃない、やるものだ、と祭りのすばらしさに感動を覚え、そこからはまってしまいました。

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 「向川原虎舞風虎会」は昭和23年に発足しました。郷土芸能団体としては、比較的新しいほうですね。うちの虎舞は荒々しさ、威勢のよさが命で、1ステージで声が枯れることもあります。基本的な構成は、神社仏閣に入る前のお囃子から始まって、虎が遊び戯れる様子を表した「矢車(やぐるま)」、暴れ狂う「跳ね虎(はねとら)」、笹を獲物に見立てて攻撃したり牙を研ぐ「笹噛み(ささばみ)」、それから虎を踊った男たちが傘を持って「傘甚句」を踊って、おいとまのお囃子で終わります。教科書も楽譜もなく「秘伝の巻物」のような記録もありません。文字通り無形の継承です。人がつないでいくすばらしさは、何ものにも代えがたいと思います。娘もまだ続けていますよ。小学生の女の子は祭りで赤い襦袢を着て町を練り歩いて、中学生になったら和笛を練習します。高校生、社会人になっても続ける子もいます。ただ、女の子ができるのは和笛だけです。太鼓は叩けず、頭も持てませんし、踊ることもできません。男たちの踊り、なんですね。

 三陸は信心深い人が多く、本祭の前日の宵宮祭で奉納舞をするのがステータスです。だから、踊り手は宵宮祭で踊ることを目標に1年かけて練習します。2013年の宵宮祭では数年ぶりに高校生が踊りました。これは、すごいことです。

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 人口が1万6千人程度の大槌町に、郷土芸能団体だけで18団体ほどあります。虎舞だけで4~5団体、他にも神楽、鹿子踊り、七福神、金澤神楽、手踊り...祭り馬鹿だよねぇ(笑)。9月の小槌神社例大祭では、2~3kmの行列をなして町を練り歩くので見ごたえがありますよ。同じ虎舞でも、踊りやお囃子は全然違います。見せる虎舞を披露するところもあれば、うちのように虎の生体を表現するところもあります。でも、やっぱり自分のところが最高だと思うんですね、みんな(笑)。いまも各団体が活発に活動していることが、それを証明しています。

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 震災では、衣装や道具を含め、どの虎舞団体もほぼ全てをなくしました。それでも、2011年の4月末にお花見で避難所の人たちに虎舞を披露しようという話が出ました。これには、意見が割れました。勇壮で威勢がいいこのあたりの虎舞は、ただ騒いでいるだけだと見られがちです。虎舞の関係者の中にも亡くなった方がたくさんいたので、虎舞どころじゃないだろう、と。ところが、それでも続けようとした人たちがジャージを着て幕を持って踊ったら、みんなとっても喜びました。お囃子のリズムに乗ったり、涙を流したり。その後少しずつオファーをいただくようになった頃、私も参加し始めました。そこで、ああやっぱりいいなと思いました。こちらも気持ちがいいし元気が出ます。見ている人も喜んでくれる。虎舞はいいもんだな、って。

 このあたりでは、毎年お盆が終わると同時に祭りモードに入ります。お盆が明けると、子どもたちは「いつから練習始めるの」と聞いてくるし、大人はそわそわし始めます。大槌を出た人も祭りには必ず帰ってきます。どこの家でもお煮しめを炊いて、いい匂いが町じゅうに漂って、祭りが終わったそのときから来年が待ち遠しくなる。やっぱり大事な文化なんですね。

 でも、活動を続けるのは難しいことでした。風虎会を立ち上げた初代会長、「ミスター向川原」と呼ばれて圧倒的な存在感を持っていた1つ上の先輩、こうした方々5名を亡くして、ダメージは大きかった。やるか、やめるか。電気もない倉庫みたいなところで、会員全員で話し合いました。ろうそくを立てて、飲みながら、泣きながら。

 そんなとき一番大きく声をあげたのが、20代、30代の若い人たちだったんです。「どうしても続けたい。俺らの代で途絶えるのは嫌だ」って。

 継続しよう。方向性は決まりました。でもまだみんな避難所暮らしで、行方不明の家族や親せきを探しに行ったり、遺体安置所を確認する日々でした。職を失った人も多くいました。ちょうどその頃、一関の「京屋染物店」さんが陸前高田の「気仙町けんか七夕まつり」の半纏をつくって支援しているという新聞記事を見つけました。読んだ瞬間に電話して、その日のうちに代表の蜂谷さんに半纏を見せると、「つくれますよ、やりましょう」。即答でした。でも、お金はいつ払えるかわかりませんよ、と言うと「お金なんかいつでもいいですよ。半纏がなかったら、虎舞もお祭りもできないでしょう、とにかく、つくりましょう」って。彼のあの言葉はねぇ、嬉しかったですね。京屋染物店さんの半纏は「絆(きずな)」を「纏う(まとう)」で「絆纏(はんてん)」と読みます。そういう人たちだから、つくろうと言ってくれたんですね。そこから虎舞復活に向けて突っ走っていきました。

 他にもさまざまな方たちから支援をいただいて、虎舞は2011年9月の小槌神社例大祭で復活しました。おひねりをくださったお家の前でお礼の舞を舞う「門打ち」であちこちまわっていると、周りの家の人たちも出てきて「よかったー来てくれたー」と言ってくれました。仮設住宅に行くと、遠くて祭りを見に来られない高齢者の方たちが「ここさも祭りが来たー」「来てくれてありがとー」と、喜んでくれました。1年に1回のお祭りですから、みんなにとっても励みになったと思います。

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 虎舞復活を果たした小槌神社例大祭が終わった頃、「おらが大槌復興食堂」の開店日が決まりました。
 町役場が津波で大きな被害を受けて、町長をはじめとする40名程の幹部職員を亡くした大槌町は、当時行政機能が麻痺した状態でした。そこで、震災後のまちづくりを進めるプロジェクトチームを立ち上げ、前職が水産加工業だった私は「食べものチーム」で食堂をつくることになっていました。

 大槌町の魚の「鮭」を使った地元色のある店にしようと、震災から8か月目の11月11日の「鮭の日(魚へんに十一、十一)」にオープンしました。当時は厨房もなく、別の場所でつくった料理を出すことしかできませんでしたが、屋根と壁があって、椅子に座ってあったかいものが食べられる場所です。準備期間は実質1か月でした。今考えてもよくできたなと思います。大変だったけど、明確な目標があると人はそれに向かって突っ走れるんですね。ああいうパワーはそうそう出せるものではないですね。

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イベント用のテントでオープン

 開店当日、地元のおじさんとおばさんが別々に来てごはんを食べていて、お互いの目と目が合いました。「いやーあんた生きてたったの」「どこの仮設に住んでるの」「よかったねえ」と握手して抱き合って、涙していました。8か月も経ってるんですよ。これだけ狭い地域なのに、まだ安否が確認できていない人がいたんです。2人が喜んでいるのを見たとき、苦労した思いが一気に吹っ飛びました。そして、ここは食べる場所だけれど、誰かと会って話ができる場にもなる、と私が思ったとおり、その後はボランティアの人や支援団体さんはここをめざして来てくれるようになりました。地元の人を紹介したり、ここに来た人たち同士で情報を交換し発信し合って、情報や活動の拠点になっていきました。オープンして2年で、約4万人の人が来てくれました。

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テントから店舗へ!

 食堂オープンのための補助金も2012年度末で終了して、継続するなら独立しなければなりませんでした。迷いましたよ。やめるのもありなのかな、と。訪れる人も減っていましたから。でもせっかく開けたお店だし、続けることで雇用も生まれます。やはり続けようと、2013年4月から私が個人事業主になって経営していましたが、それも土地のかさ上げ工事のため、年内(2013年)の閉店となりました。これを機に「福幸きらり商店街」という仮設商店街の近くに場所を確保して、本設の店を建てることに決めました。個室やフリースペースがあって、家族も気兼ねなくゆっくり楽しめて、若い人たちが少しでも長く地元で楽しめるような場所にしたいと思っています。震災がきっかけとはいえ、今回の場合は新規なので罹災証明や補助金は出ませんし、自己資金でやることになります。私にさえできたんだから、他の人にも「やれるかも」と思ってもらえたらいいですね。

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夫婦で経営

 オープン当初、私はほとんど素人でした。でも実現できたのは、やりたいという思いがあったからです。2年経って振り返ってみて、結構前に進んでたんだなと、やっと実感するんです。だから今は、少しでも何か思いがあるならまずやってみよう、もしうまくいかなかったらそこで問題をクリアすればいいと思うんです。結果はあとからついてきます。その結果は次につながります。立ち止まってもいいんです、後ずさりしなければ。でも、やるのは自分です。

 かさ上げで、来年からはほぼ町がない状態になります。祭りで町を練り歩くことも、もうできません。町のかたちは変われど、祭りはみんなでつくりあげていきます。ま、祭り馬鹿だからね、必ずやります。必ず、やる。

(2013年12月15日)

関連リンク

ネットTAMメモ

 「俺ら、祭り馬鹿だから」と笑いながら何度も仰る岩間さんの目には、大槌の人と町の姿が映っているようでした。あの日から今も溢れ続ける悲しみ、苦しみ、涙を、この地に代々受け継がれてきた文化、誇り、愛情とともに心身に纏い、明日へ向かっていく、その閃光にも似た気迫が、冗談交じりの口調のふとした瞬間に現れていました。
 新しい食堂は2014年3月11日にオープンするはずでした。しかし復興に向けた公共事業が進む今、資材の高騰などで開店の目途はたっていないそうです。
 何が真の復興であるかは簡単に答えられるものではありませんが、結果だけではなく、そこに行きつこうとする意志と行動することの大切さを、岩間さんは訴えているように感じました。 自分にできることはなんだろうと必死に問うた日本各地の目線が、被災地から徐々に逸れつつあるように感じられるなか、「やるのは自分です」という言葉は、溢れてしまったものの代わりにこの地から湧き上がるものがあると教えてくれます。町のあちこちで水しぶきをあげていた、湧水のように。
 昨年も鮭は大槌町に帰ってきました。
 鮭の日を越え、冬を越え、3月11日はまた今年も巡ってきます。

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