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曖昧



古い辞書である『言海』(大槻文彦、ちくま学芸文庫)で調べてみる。

あいまい(名)[曖昧](一)薄暗キコト。分明ナラヌコト。(二)事ノハキトセヌコト。定マレル目當ナキコト。

ついでに、ぼくの持っている最大の辞書、『精選版 日本国語大辞典』で調べてみると、「曖」も「昧」も暗いという意味の漢字であった。『言海』では言及されていない意味では、うしろ暗いこと。いかがわしこと。怪しげな、疑わしいさま。が載っていた。曖昧女、曖昧茶屋、曖昧屋、曖昧宿などが、いかがわしい意味に用いられている。

と、ここまで辞書をひっくり返してみたが、それで? という気になる。そもそも「曖昧」ということばは、明確な定義を拒むのではないだろうか。曖昧の精神を忘れた語釈に、せせら笑っている曖昧の姿が隠れ見える気がする。この「気がする」というのも、ずいぶん曖昧な言い方であるが、こうとしか言えない気分というものを人は簡単には脱ぎ捨てることができない。なんでもかんでも、はっきりと言い切ってしまうと、含みのない単純な、面白味のない粗雑な表現になってしまう。誰でも簡単に使えるレトリックとして、「何々のような」という表現がある。試しに、「仏のような人」は仏ではない、「鬼のような人」も鬼ではない、どちらも人であるのだが、人とだけ言ったのでは伝わらないことを伝えようとしている。「人」と言ったところで、どんな人なのかは、まったく不分明なのだ。これらの表現が分からないと「鬼手仏心」などというのは、たんなる怪物になってしまう。

人が人として生きるうえで欠かすことのできない「ことば」の正体は曖昧なものなのだ。世界に満ちあふれている個別具体的なあれこれの物や現象は、決して一様ではなくひとつの言葉で言い切れるようにはできていない。切れ目のない変化と流動が世界のありさまで、だからこそ、人は「ことば」を発明したとも言える。何かを考えるためには、比較考量するための区切りが必要になる。それを可能にするのがことばによる世界の分節化であり、一挙に感受したはずの世界の豊かな複雑さを犠牲にしてしまうことは避けられない。これに抵抗するのが、曖昧の精神である。目の前にある美しい蝶の標本、その固定された蝶にいのちの息を吹き込み、ふわりふわりと舞い飛ぶ美しさを取り戻すとき、あなたは美を静観する者から、美に揺り動かされる者になる。「ある」と考えられるものと、そうとは考えられない「ない」ものとを溶け合わせて、根っこにある感動に立ち戻る。アートが感動に揺り動かされて生まれ、その感動に巻き込まれていく人々の営みであるとすれば、曖昧の精神こそアートの基幹にあるはずだ。

人はわからないことに長く耐えられない。だから、わかることに頼ってしまう。が、わかってしまうことは退屈であり、その欺瞞に我慢できない人が現れる。そして、既存の理解の枠組みを破壊して混沌のなかから、ふたたび探求を開始する。秩序の隙間に入りこみ、そこに迷路を見つけて遊びだすのがアートのいかがわしさであり、わかりにくさであり、生きる曖昧さを輝かせる力になる。

(2015年10月8日)

関連文献

『わかりやすいはわかりにくい? —臨床哲学講座—』(鷲田清一、ちくま新書、2010年)

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