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最近の「評価」流行りには、少々うんざりだけど…

 最近の舞台で最も印象に残っているものを選ぶとすれば、ためらいなく東京国際芸術祭(TIF)が3月にチュニジアから招聘した「ジュヌン--狂気」をあげたい。
 「実在の統合失調症患者と女性精神療法医の15年にわたる対話を通じて、チュニジア社会に生きる若者の出口なき絶望と屈折、内面の崩壊と再構築を見事に描く。チュニジアの"現在"を通して日本にも共通する現代社会の病について深く問いかける問題作」とは、TIFのプレスリリースの紹介文である。プレス用の褒め言葉ほど当てにならない評価はない、といつもは思うのだけれど、この作品の場合は違っていた。
 舞台で精神療法医を演じたジャリラ・バッカールの脚本、現在アラブ演劇の最高峰といわれる演出家ファーデル・ジャイビの演出、そしてこの作品のために結成されたファミリア・プロダクションの役者たちの演技、そのどれもが秀逸であり、心を動かされる作品だった。
 私は演劇評論家ではないし、そんなに舞台を観ているわけではないけれど、演劇という芸術の持つ社会的な力や逞しさを再認識させられた。こんな作品に出会える瞬間があるから、アートにかかわる仕事はやめられないのである。

06-01.jpg 『ジュヌン--狂気』
(c) 松嶋浩平


 それにしてもチュニジアである。世界地図で正確な位置すらおぼつかない人が多いだろう(実際私がそうだ)この国で、こんなに力強い演劇作品が創られているということを、どれほどの日本人が想像できるだろうか。ましてや、それを日本に呼ぼう、というのだから、TIFディレクターの市村さん、そして交渉を手がけたスタッフの皆さんには本当に頭が下がる。まさに、世界は広い、演劇もまだまだこれからだ、である。
 TIFの主催者は、アートネットワーク・ジャパン(ANJ)というNPOである。もし、このフェスティバルが、どこかの都道府県や公立劇場の主催だとしたら、私たちは果たしてこの作品を見ることができただろうか。仮に熱心な担当者が招聘を企画したとしても、チュニジア?、ファーデル・ジャイビ?、そんな誰も聞いたことがない作品はやめとけ、と上司に却下されるのが関の山だろう。
 公的な助成金や民間企業の協賛金を得てはいるものの、官からも民(間企業)からも独立したNPOだからこそ、実現できた企画にちがいない。なぜならANJは、舞台芸術の専門機関として、確固たる信念に基づいて、作品の評価に責任を持とうとしているからである。

 私たち日本人は、「わかりやすいもの」、「結果が予測できるもの」に流されすぎてやしないだろうか、と思うことがよくある。ある劇場のプロデューサーが、日本では「スター芝居」しか成り立たない、と嘆いていた。作品を観に来るのではなく、そこに出ているスターを見に来る、というのが劇場に足を運ぶ動機だというのである。
 それらがすべて悪いとは思わないが、TVで見られるものを「確認する」ために劇場が存在しているとしたら、そんな寂しいことはない。エンターテイメント作品やスター芝居にありがちな「薄っぺら」な感動ではなく、今までに観たこともない作品に出会い、深く、突き動かされるような瞬間を体験できる場所、劇場はそんなところであってほしい。
 有名だから、TVで見たから、観に行く。それは裏を返せば、評価の基準が自分にはない、自分で判断する習慣がない、ということである。いささか短絡すぎるが、そういう訓練が、日本の教育には一番欠けているように思う。今世間を騒がせているJR西日本の問題や企業の不祥事だって、そうしたこととは無縁でないと思えるのである。
 「ほんとうに頼りになる人だ」なんていう前回のコラム執筆者・市村さんのおだてに乗せられて、TIFのことを少し宣伝しようと思って書き出したら、あらぬ方向に話がきてしまった。でも、こんなことを考えさせられたのも、チュニジアの演劇に本当に心を動かされたからである。

 さて、「評価」である。と、ここでやっと本題にたどり着いたが、既に予定の字数を大幅にオーバーしてしまった。そこは、メセ協の若林さんに大目に見てもらうことにして、もう少し書かせてもらおう。
 とにかく、最近は「評価」が大流行なのである。今、研究所で取り組んでいる仕事も半分以上が評価がらみである。と言っても、芸術作品の評価ではない。文化政策や公立文化施設の評価である。でもこれがなかなか手強い代物なのだ。
 作品の評価なら、一人ひとり違っていても問題ない。むしろ、それが当たり前だし、主観が許される世界である。でも、公立劇場の評価となると、なにがしかの客観的な基準が必要になる。なぜなら、そのことで、税金が使われることの妥当性(逆の場合は税金を使う必要性がないこと)を、判断しなければならないからである。

 満席でほどんどの観客がそれなりに満足した「スター芝居」と、客席はまばらでも、何人かの観客が精神的な挫折から立ち直るきっかけを得たシリアスな演劇作品。仮に、この2つの公演があった場合、はたして公立劇場としてはどちらを評価すべきだろうか。私は後者の肩を持ちたい。もちろん集客努力が足りなかったことは厳しく評価されなければならないけれど、観客を集めることだけが、公立劇場の仕事ではないはずだ。
 そこで問題になるのが、これまた流行りの「ミッション」ということになるのだが、限られたスペースでは、とてもこれ以上詳しくは説明できない。ただ正直に告白すれば、どれだけ厳密な評価方法を追求しても、全員が100%納得するものを構築することなど、とうてい無理だろう、と思う。でも、これからのアートマネジメントの世界では、評価を避けて通ることはできない。
 なぜなら、評価は社会的な信頼を得るプロセスであり、文化政策や文化施設の分野で評価がこれだけ問題にされるのは、残念ながら、それらがまだ社会的な信頼を勝ち得ていないからである。突き詰めれば、芸術そのものの存在価値が、まだまだ社会に認められていない、ということなのである。
 でも、文化や芸術は、戦後、私たち日本人が一貫して追い求めてきた経済性や効率性といったモノサシでは評価できないから、話はやっかいなのだ。けれども裏を返せば、経済性や効率性では判断できないからこそ、芸術には現代的な価値がある、ということも忘れてはならないと思う。画一的な基準ではなく、皆が、自分の判断で評価できる、好き嫌いを言える、そんな日本人の苦手なことが、アートの世界では許される。だから多様な価値観も個性も共存できるのである。
 芸術が社会から信頼される存在になって、文化政策の評価なんて気にする必要もなくなる、そんな日が来ることを考えながら、また苦手な評価の仕事にとりかかるしかない。

 と、ここまで書いて、去年の北海道朝日町での体験を思い出した。なぜって、そこでは、公共ホールが町になくてはならない存在となっている、ということを実感したからである。ということで、リレーコラムのバトンは、朝日町サンライズホールの漢幸雄さんに手渡すことにしよう。

(2005年5月20日)

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

漢さん

吉本です。去年はすっかりお世話になりました。都合4回の朝日町訪問をいつも快く出迎えてくれて。それにしても、朝日中の学校祭で、学校が職員室ごと1週間ホールに引っ越してきていたのには驚きました。先生も生徒も「ホールに登校」して朝から晩まで稽古、その間校長先生が給食の配膳係、そして学校の電話はホールに自動転送…、そこまでして、学校もホールも町ぐるみで子どもたちを育てよう、というのだから。
そして、小林厚子さんのリサイタルも人口2,000人弱の町で約200人の入場者。ということは10人に一人以上(東京なら120万人!?)という計算。東京から日本を変える、と言う知事もいるけれど、今や病んでしまった大都会から日本は変えられないよね。忙しいとは思うけれど、このネットTAMに北の大地から熱いメッセージを送ってください。
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