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みちのくやアジアを巡りながら考えていること

8月のある日、わたしは「みちのくアート巡礼キャンプ」の一環で訪れた遠野にいた。民俗学者の赤坂憲雄氏に導かれながら、一行はクマ出没注意の看板を横目に、パン、パンと手を叩きながら、山道を奥へと、上へと進んでいく。クマは、人間の音に反応すると近寄って来ないらしい。だいぶ上がったところで、突如山の斜面一面に、苔に覆われた天然石の一群が広がる。これが遠野の五百羅漢だという。よく見るとその一つひとつに、顔が刻まれている。江戸時代の度重なる大飢饉で、この地方では数万単位の餓死者が出たという。人肉をも食らわざるを得ないような苦しみの果てに亡くなった死者たちを供養するために、地元の僧侶が6年の年月をかけて、五百体もの羅漢像を天然石に刻んだそうだ。それから300年近い時間が経過し、レリーフ状に掘られた羅漢の顔は自然の風雨に磨耗し、苔に覆われて、もうその輪郭は朧だ。それでもよく見れば、足元の石に、穏やかな表情が浮かび上がる。その苔の小山は、斜面のはるか上まで続いていて、私たちはその一番上まで、羅漢像の刻まれた石の上を上がっていった。途中、岩清水の湧き出る音が聞こえる岩の隙間が薄暗い穴になっていて、そこに小さな本堂が置かれていた。

その岩清水の音を聞きながら、私は想像する。一人の宗教者が、誰もいない山奥に分け入って、来る日も、来る日も、岩に顔を刻む。彼はそこで何を、誰を、思っていたのだろうか。どんな音を、どんな声を聞いたか。そこには古代から続くアニミズム信仰と、インドから伝来した仏教の世界観が交わる。その交差点に、僧侶は立つ。そこに想像力が生まれる。ここに、このすべての石に、羅漢の顔を刻みたい、そして亡くなった餓死者の魂を鎮魂したい。決してプロの絵師ではなかった一人の僧侶が、6年もかけてこの自然景観を巨大な鎮魂のインスタレーションへと転換させた行為は、私たちに芸術の根源的有り様について問いかけてくる。

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遠野の五百羅漢
写真:小松 理虔

ところで、この原稿を書いている今現在は、お盆の真っ最中である。お盆の時期には、帰還する死者の魂を迎え入れるため、さまざまなお供えや行事が行われる。お盆といえば盆踊り。日本三大盆踊りの一つ、秋田県羽後町の西馬音内盆踊りでは、踊り手たる女性たちは、艶やかな衣装を身にまとい、編笠を深くかぶり、「彦三頭巾」とよばれる黒い覆面をたらした姿で踊るそうだ。目の部分だけがかすかに開かれたその特異な装いは踊り手の女性を匿名でミステリアスな存在へと変容させる。それは、死者を迎え入れるため、もっというならば、亡者そのものとなって踊る、ということらしい。西馬音内の盆踊りの起源は、戦国時代末期、この地域を支配していた一族が滅ぼされ、その先祖の魂を慰霊するために始まったとされる。そこでは、普段は生きた肉体を持った女性たちが覆面し踊り狂うことで、死者の魂を迎え入れ、あるいは死者そのものを媒介し、生者と死者の境界線を揺さぶる存在となる。西馬音内の盆踊りに限らず、室町時代から戦国時代にかけて、念仏踊りや亡者踊りなどが混交しながら各地に生まれたのだという。長い混乱と殺戮の時代に、名もなき人々が死者の魂を迎え、送るための儀礼として、こうした集団的舞踊が爆発的に流行したのも頷ける話だ。

遠野の五百羅漢。西馬音内の盆踊り。今日、私たちを魂から揺さぶるこれらの表現は、そのはるか昔、「敗者」から生まれた。歴史の表舞台はおろか、それが誰であったか、名前も、出自もなく、墓もない。何も残すことなく死んでいった無数の人々がそこにいて、彼らの死を悼んだ人々もいた、ということだけがわかる。そこに残されたのは、鎮魂の身振りであり、死者を媒介し、死者と対話をするための儀礼的な空間である。それらは300年の時を経て、自然と人為が交錯する壮大なランドスケープ・アートとなり、その地域の全員が主体的に参加するコミュニティ・ダンスとなる。神や死者との対話だけではなく、そこに生きる人の心の「よすが」となり、外部から訪れる人への「しるし」となる。

そこで、私は想像する。これから300年後の人が、魂を揺さぶられるような表現とは、どんなものだろうと。誰が勝者で、誰が敗者か、そんなことすら相対化されてしまうような長い時間のあとに、誰がそこに生きていて、誰がその物語の担い手だったかも判然としない時間が流れたあとに、どんな表現が残るのだろうか、と。

今、行政主導型のアートフェスティバルや文化イベントが全国各地で盛んに行われている。2020のオリンピックまでさらに加速するであろうこれらのイベントは、国家的祝祭を盛り上げるという建前のもとに、政治的アジェンダに基づき企画、実施されている。その枠組みを利用して、未来に一つでも多くのレガシーを残したいという文化関係者の切実な取り組みは尊重されるべきだと思うが、そもそも芸術というものがもつ時間感覚と、政治的アジェンダは、根本的に異なる時間を扱っている、ということを、それぞれの主体がどれだけ自覚的に意識できるかが問われているように思う。

はるか遠い過去の声を聞き、まだ見ぬ未来へと接続する。芸術家はそれを現在という時間に、媒介する。一人の人間の一生では覆いきれないくらいのスケールで展開される芸術表現に、私たちはどのように寄り添うことができるのか。今、芸術表現の<出口>として、作品をアウトプットしそれを陳列するという博覧会/国際展や、作品を通じて都市に非日常を生み出す祝祭/フェスティバルが、アートと不特定多数の観客をつなぐ定番のモデルとなっているが、私がディレクションする芸術公社のプロジェクトは、芸術表現の<入り口>を、全く別の形で組織する方向に舵を切っている。

2012年から5回にわって実施してきたR:ead (レジデンス・東アジア・ダイアローグ)においては、東アジア4地域から集まるアーティスト、キュレーター、トランスレーター、スタッフら総勢30名程度が集まり、2週間にわたって対話をベースとした共同滞在を行う。東京、台南、台北、ヤンピョン、ソウル、香港と、東アジアの諸都市を周遊しながら、インディペンデントな手から手へバトンがリレーされていく。全員が母国語を話すというルールは、東アジアにおける言語や歴史、アイデンティティの問題と向き合うことを嫌が応にも要請するし、2週間の滞在期間ひたすら身体を移動させながら行うリサーチ旅行は、それ全体が巨大なツアーパフォーマンスのようでもある。もともとは私が東京で考案した企画だったが、公的資金の不採択を契機にアジアの仲間たちの手に受け継がれ、開催地において必然性ある形へと再編集が重ねられている。つまり、毎回の開催地やホストの意向によって、現地モデルにローカライズされ、改良されていくのだ。いってみればr:eadは、これまでのすべての参加者による、一種の共同創作であり、その産物として進化を続けるコミュニケーション・モデルである。

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r:ead#5 レジデンス・東アジア・ダイアローグ in 香港 2017

2015年から3回実施してきたみちのくアート巡礼キャンプ(シアターコモンズ・ラボ | 夏期集中ラボ)も、公募で集まった若い表現者、企画者10名と、講師として招かれた作家、民俗学者、社会学者、宗教者らがともに東北各地を周遊しながら経験をともにする1ヶ月のプロジェクトである。古来より中央政府から「みちのく」、すなわち「道の奥」と名指されてきた土地に身体を巡らせ、対話し、学び合う時間として設計されている。そこには、中央に対して負を背負わされてきた「敗者」としての歴史だけではなく、山や海、動物、自然現象など、非人間的なものや超自然的なものとの共生によって積み重ねられてきた無数の物語、それを支える世界観がある。と同時に、津波によって破壊され洗われた、むき出しのままの風景があり、失われたものとともに生きる人々の日常がある。それらと身体的に向き合い、過去の芸術家たちが媒介する世界や声を受容する中で、参加者たちは激しく揺さぶられる。若い参加者からは「人生が変わるほどの経験だった」という声をよく聞くが、私自身、毎回このキャンプ後には、遠い旅の果てに何か自分の心身が浄化され再生したような感覚を覚える。まさに「巡礼」そのものである。

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みちのくアート巡礼キャンプ2017
写真:小松 理虔

昨年度からはじまったシアターコモンズも、明らかに上記二つのプロジェクトの延長線上で考案されている。Theater という言葉には演劇と劇場という二つの意味があり、その二つの起源を参照しながら、まだ見ぬ、来たるべきTheater の形を模索することを目的として計画されている。すでに型や方法として決まった演劇/劇場の形をなぞるのではなく、古代から続く演劇のエッセンス、別の言葉でいえば、演劇的思考や演劇的発想を利用し、それを参加者/観客一人一人がそれぞれの実生活でも活用したり、問いを深めたりできるようなモデルを提案できないか。このような問題意識のもと、アーティストとともに独自のワークショップを開発したり、レクチャーパフォーマンスによって過去の芸術行為に別の奥行きをつくり出したり、対話/創作/参加をベースとした、広義の「劇場」を模索している。

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シアターコモンズ | ワークショップ 『日本人を演じる』
演出:藤井光
© Hikaru Fujii

芸術公社を立ち上げてから3年の間に展開してきたこれらのプロジェクトに共通するのは、そこで提出されているものが、アウトプットとしての「完成されたもの/作品」ではなく、むしろ参加者へのインプットとしての経験であり、素材である、ということだ。そこで経験したものを、どのようにそれぞれの創作活動や日常生活で活用していくかは、それぞれに委ねられている。参加者は、自分にとって必然性のあるタイミングや場所で、そのプロジェクトを実現すればいい。それは半年後かもしれないし、5年後かもしれない。30年かかるかもしれない。芸術公社が提案する緩やかなフレームを勝手に活用し、自分の時間、自分の空間に置き直して展開していけばいい。実際、2013年からr:eadに翻訳者兼スタッフとして参加していた田村かのこがr:eadでの翻訳的課題を発展させ翻訳者集団「アーツ・トランスレター・コレクティブ」を立ち上げたり、香港のオーガナイザーが独自にr:eadのドキュメント展を開催したり、みちのくアート巡礼キャンプで生まれたプランを若い作家たちが実現したり、ということが次々と起こっている。その成果を、再び一つの中心に統合するのではなく、一見バラバラなまま、しかし地下水脈でネットワーク化された創作物として、複数の時間に、複数の場所に委ねること。私はそのバラバラに置かれたものを巡りながら、あらたな創作プランを考えることさえできる。それは、一人の人間のビジョンに個々の表現を統合するより、ずっと有機的で、ラジカルな刺激を与えてくれる。このような循環こそが、来るべきアートプロジェクトの形として、私の中に、少しずつ、しかしはっきりとイメージされてきている。

先日、みちのくアート巡礼キャンプに同行してくださった文芸批評家の藤田直哉氏が、ご自身の論考「〈東北ユートピア〉試論I - 東北で胎動しつつある、ユートピア」でこのような言葉を与えてくれた。

「みちのくアート巡礼キャンプ」は、表層的に通り過ぎていきがちな芸術祭や「地域アート」にありがちな鑑賞形態とは異なり、レクチャー、対話、議論、共同生活などを非常にディープに行えるフォーマットであり、作品としての「みちのくアート巡礼キャンプ」は「地域アート」の限界を超える形式であると強く感じた。

彼のいう「地域アート」を、ひとまず地方自治体主導型のアートイベントと捉えた場合、そこで陥りがちな課題は、行政の欲望やアジェンダと、アートやアーティストの欲望や時間感覚が、そもそも異なっているのだ、という大前提を、両者がすり合わせ、両者が納得するに十分な評価基準を構築できていない、ということにある。動員数や経済効果を測ることはできても、経験の質や二次創作的な広がりを、誰もが納得する形で示すことは難しい。かといって、行政の欲望を代弁してしまっては、アートは業者化するだけだ。そしてこのことの危機感は、その現場にかかわった人間であればおのずと気がつくだろう。誰もが違和感を持っている。にもかかわらず、もはや誰の欲望でもない形で暴走するイベントを止められないのは、そのフレームが強固で、政策という強制力を持つからだ。藤田氏のいう「地域アートの限界」を超えていくためには、私たちはその次なるモデルを、少々の痛みと大いなる野心をもって、提案していかねばならないだろう。

最後に、冒頭の二つのイメージを召喚したい。遠野の五百羅漢や西馬音内の盆踊りは、時間を超えて、死者と生者をつなぎ、此処と他所を媒介する。名もなき敗者たちの行為が300年後の私たちの魂を揺さぶるように、芸術は、現世を支配する制度や価値基準では飛び越えられないのもの、満たされない魂、解決できない圧倒的に不平等な世界に、全く別の時間や基準を持ち込むことで、異なる次元へと接続することができる。想像力という亀裂を入れて、裂け目をつくり、別の回路へと繋ぎなおすことができる。そこに言葉や、身振り、しるしが生まれる。私たちはこの営みのおかげで、時空を超えて、他者や他所に想いを馳せることができるのだ。

そのような芸術に寄り添い、さらに異質なものへと媒介するのが広義の「アートマネジメント」だとしたら、今私たちがあれこれ議論しているアートマネジメントの射程は、あまりにも近視眼的になってはいないか。あまりにも、目の前の政治的アジェンダに振り回されてはいないか。あまりにも既存の制度や秩序を守る側の論理で運営されてはいないか。自戒も込めて、改めて問う必要がある。

芸術公社を基盤とする活動は、こうした問題提起を内包した、来るべきアートマネジメントのオルタナティブな提案であり、現在進行形の実践である。

(追記1)
11年ぶりにネットTAMから執筆のお声がけをいただいた。2006年5月25日に掲載された初エッセイは「切実な何かを巡る私的考察」というもの。まだ「急な坂スタジオ」も、「フェスティバル/トーキョー」も、「芸術公社」もはじまっていない時代。初めて公的に読んでいただく文章ということでえらく緊張して書いた記憶がある。ご興味がある方はご笑覧いただきたいが、基本的にそこで語られていることは、今でも自分にとってアクチュアルである。逆にいえばそこで提起した構造的課題について、あらゆることはベターになったとはいえ、根本的には何も解決されていないということでもある。10年ちょっとでは、それこそ価値基準やインフラを変えることは難しいということを、自戒を込めて記しておく。

(追記2)
この一連のシリーズは「イベントではないインフラとしてのアート活動のために」と題されている。当然のことながら、2020東京オリンピックという国家的な祝祭、世界的熱狂を生み出すイベントを頂点として日本各地で企画される各種アートイベントに対して、アートのインサイダーからも自発的に警鐘を鳴らすような論考を、ということで依頼されたと理解している。舞台芸術のインフラといえば、さしあたって劇場とその制度、作品創造のプラットフォームとしてのフェスティバル、稽古場、公的資金導入のシステム、アーティストや制作者の育成制度、などが思いつくわけだが、当然、それらに関して問題点、課題点は膨大にあり、それらをこう改善し、こうデザインし直すべきという話は、この紙面では分量的にも、またネットマガジンという媒体の性質的にも難しいと感じた。ご興味がある方は、平田オリザ氏との対談「現代演劇のレッスン」、舞台芸術20号に掲載された座談会「2020以後の創造環境」などを読んでいただきたい。そこに大方の論点が出ていると思う。

(2017年8月26日)

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バトンタッチメッセージ

イベントではなくインフラとしてのアート活動のために」と題したこのリレーコラムの最後となる第6回目の公開に先立ち、昨日2017年8月31日、京都ではアトリエ劇研という小劇場が30余年の歴史に幕を下ろした。ある一人の人物の夢によって始まったこの場所は、その方の意思によって終わるのだが、これまで培われた有形無形の財産は、京都や関西(あるいは日本)の舞台芸術環境にとって計り知れない影響を与え、そうした意味でまさにパブリックな営みだった。

ほぼ時を同じくして、平成30年度の文部科学省概算要求も発表された。そこには、文化芸術関係予算のポイントとして、「文化芸術により生み出される社会的・経済的な価値の文化芸術への継承、発展及び創造や、日本ブランド向上に向けた多彩な文化芸術の発信などを通じて、文化芸術立国の実現を目指す。」とあった。創造や発信という勇ましい言葉が踊っているが、2020年のオリンピック・パラリンピックを見据えてのことだろうし、かつての文化芸術行政が「ハコモノ行政」と謗られたことへの反動でもあるだろう。

他のセクターもそうだろうが、アート活動は行政がイニシアティブをもって行う企画や施設だけで行われているのではなく、民間での活動も含めてエコシステムが成り立っており、そうした全体の有機的な関係を踏まえた政策が必要なはずだが、昨日の二つの出来事に日本におけるアートの公共性ということを意識させる不思議な符牒のようなものを私は感じた。

また、これから日本は急速な人口減社会へ突入する。そうしたときに、動員型つまり成長を志向するイベントが果たして必要なのか、あるいはそれ以外の選択肢があるのか、アートと社会をつなぐアートマネジメントという仕事に携わる者たちは、未来の社会をデザインするつもりで取り組んでいかなくてはならない。それを思考していくうえでも、非常に重要な示唆を与えてくれるリレーコラムになったのではないかと思う。本リレーコラムの執筆の呼びかけに応じてくださった、齋藤貴弘さん、植松侑子さん、佐野晶子さん、竹下暁子さん、相馬千秋さんありがとうございました。また、リレーコラムをご担当いただいたネットTAM運営事務局の皆さん、半年間ありがとうございました。

(橋本裕介│ロームシアター京都/KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター)

イベントではなくインフラとしてのアート活動のために 目次

1
舞台芸術制作者の専門性
2
アートの源泉として夜
3
2030年を見据えるところから始まるアートマネジメント
4
「アーツカウンシル」のプログラムオフィサーとして取り組んできたこと
5
エクストリームな文化施設にできること
6
みちのくやアジアを巡りながら考えていること
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