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舞台芸術制作者の専門性

心に引っかかっている言葉がある。

おばちゃん、結構頑張ってやってきたつもりやねんけど、印刷屋さんせな食べていかれへんねん

2003年に惜しまれて亡くなった、京都の名物演劇プロデューサー、遠藤寿美子さんの言葉である。天衣無縫で世話好きで、おしゃべりが大好きだった遠藤さんには、たくさんの名言や忘れられない言葉があるが、今日はこれを紹介しておく。

遠藤さんは、1984年には京都の小劇場・アートスペース無門館(現アトリエ劇研)の同人の一人として設立に参加。無門館がアトリエ劇研として生まれ変わったのを機に、フリーランスへ。その後は京都市が主催する「芸術祭典・京」演劇部門のプロデューサー、伝統芸能の海外公演などを手がける。とりわけ遠藤さんの仕事の中でも際立ったものとしては、ダムタイプを世界に送り出したこと、読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞した『月の岬』(作:松田正隆、演出:平田オリザ)をプロデュースしたことだろう。演劇における数多くの業績を遺した遠藤さんだったが、生涯印刷・デザイン業との二足のわらじで、演劇だけに専念することはなかった。

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アトリエ劇研
劇場「アトリエ劇研」は京都市の左京区下鴨の閑静な住宅地の中に位置する民間の小劇場。館長である波多野茂彌(はたのしげや)の自宅を改装し1984年に「アートスペース無門館」としてオープン。1996年に「アトリエ劇研」改称し現在に至る。2017年8月末日をもって閉館予定。筆者は2002年5月開催の「アトリエ劇研演劇祭」に広報スタッフとして参加、初めてコンテンポラリーダンスの分野で仕事をするきっかけとなった。
京都小劇場の草分けとして、今でも多くの舞台人を輩出しつづけている。

さて私は大学在学中から演劇活動を始めたのだが、先輩が立ち上げた劇団に参加したときに、制作を担当するように促され、最初に制作として手がけた公演が思いのほか興行的に成功し、確か3万円だったかそれくらいのギャラを手にしたことに気をよくし、いつの間にか自分でも仕事を制作(アートマネジメント)だと自覚するようになって17〜18年が経とうとしている。

どうすれば自分の能力を磨いてこの制作という仕事を「食える」職業としていけるのかは見当もついてなかったが、とにかく最初はおもしろい作品が生まれる瞬間に立ち会いたかっただけだった。

よく考えれば、その当時から作品製作を行う劇場だってあったし、民間の制作会社だってあったわけで、それらが仕事の選択肢になりえたはずだ。しかしとにかく私の視野は狭かった。そのせいで、社会がどのように変化していて、その流れとどのように折り合いをつけていくのかということにも思い至っていなかったため、自分のキャリアデザインはおろか芸術の社会的価値について考えを巡らせることさえできなかった。

私の目が一気に覚めたのは、2002年のことだったと思う。一緒に仕事をし始めようかと話をしていたダンスデュオ「砂連尾理+寺田みさこ」が、第1回トヨタコレオグラフィーアワードの大賞を受賞したのだ。京都でささやかに活動していた彼らの生活は一変し、その渦に私も巻き込まれた。ダンス表現をめぐって、企業・公共劇場・助成団体・ジャーナリストなど大人が取り囲み、ある種の“社会”を形成していた当時の東京の様子に面食らった。芸術を振興させようという思いは共通だっただろうが、そこには駆け引きやハッタリその他色々、きれいごとだけでは済まされない事情もあった。同じ年、文化庁派遣芸術家在外研修員を終えて帰国したばかりの演出家の三浦基さんに出会った。彼は2年間フランスに滞在し、彼の地で公立劇場が演出家を抱え劇場で作品をつくっている状況にいたく刺激を受け、日本でも何とか自分の手で実現させたいと意気込んでいた。

私は彼らとの出会いによって、活動を国内だけでなく海外にも広げていくことが「ありえること」だと思えるようになった。そして、芸術を取り巻く“社会”というものがあり、それらが複雑に絡み合いながらステークホルダーとして機能し、現実の状況を支えているのだと知った。当時世田谷パブリックシアターのプロデューサーをされていた楫屋一之さんに「優れたアーティストと出会えること自体が制作者の才能だから、それを磨くために独立して自分の会社を作りなさい」と勧められ(そそのかされ?)、橋本制作事務所という個人事務所を2003年に立ち上げた。それ以来、海外公演や公的助成・企業協賛、そして劇場のプログラミングなどのメカニズムがどうなっているか、見よう見まねで学び、なんとか今に至る。

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京都芸術センター
京都芸術センターは、京都市の中心部にある芸術振興の拠点施設。明治に京都の町衆たちの力でできた明倫小学校が廃校になったあと、その跡地と校舎を利用して、2000年に京都芸術センターとしてリニューアルオープン。鈴江俊郎、松田正隆、土田英生らが中心となった京都舞台芸術協会が京都市にさまざまな提言を行って計画が策定された。筆者は2004年から2009年にかけて「演劇計画」というプロジェクトをセンター主催事業として手がけた。

それから14年、私がこの仕事を始めたときよりはアートマネジメントを学ぶ機会も増え、その後の仕事のチャンスも増えているようだ。しかし何か本質的に変わっただろうか? 2005年にこのリレーコラムで市村作知雄さんが指摘した状況とそれほど大きく変わらないのではないかと思う。アート制作者の地位向上と専門職化という課題はまだ残っている。私が「舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)」というNPOの理事長を務めていることもあり、舞台芸術制作者の職能については常々考えているのだが、美術とも異なる舞台芸術の事情というのもあるのではないかと感じている。一言で舞台芸術制作といっても専門性は多岐にわたっており、「プロデューサー」「マネージャー」「ドラマトゥルク」などなど。しかし個人としての職能を凌駕する形で、広告代理店や放送局、芸能事務所が資金集めやキャスティングを実現させてしまうので、「プロデューサー」「マネージャー」といった職能を個人として突き詰めるには限界がある。また、舞台芸術と芸能が分ち難く結びついている日本の状況では、木戸銭が興行を支える重要な要素であり、専門家に選んでもらわなくとも何がおもしろいかの答えは観客自身が持っているとも言え、市村さんが指摘する「制作型のドラマトゥルク」の必要性が社会において理解されているかと言えば、それほどでもない。

とは言え、芸術の社会的な価値を考えれば、短期的な結果では測れないものがあるわけで、だからこそ受益者負担だけでなく公的なお金が必要になってくる。行政であれ民間の企業であれ、芸術に対して支払われる支援は「公的」なお金だと言える。「公的」である理由は、社会全体に対して広く、かつ長期的なスパンで還元されることが期待されているからである。だから、社会の財産である芸術作品を、世界に遍く紹介するための機会を支えているのだと思う。あるいは、未来の住人にとっても財産となりうる芸術作品を生み出すにあたって、現在の住人だけに費用を負担させるのはバランスが悪いので、「公的」なお金が用いられるのだろう。そうした公的なお金をどのような理屈で生み出し、配分するのか、それはまさに文化政策の領域であり、「制作型のドラマトゥルク」の出番である。しかし、日本の行政組織は、公的な仕事を他のセクターに委ねることを基本的によしとしないので、学識経験者をアドバイザーとして招くことはあっても、文化政策の立案にあたって現場の人間と膝を突き合わせるようなことは基本しない。

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the radar[kyoto]
撮影:浅野豪
KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNの公式プログラム。電子音楽家・美術家の池田亮司によるサイトスペシフィック・インスタレーション。ロームシアター京都の中庭に、22メートル×12メートルの巨大なスクリーンを設置、展示される地点の緯度・経度で観測できる宇宙を、膨大なデータベースからマッピングしたイメージの集積として投影、圧倒的なビジュアルと音響に身を包まれるような体験を生み出した。

さて私の今の関心は、2010年から続けているKYOTO EXPERIMENT京都国際舞台芸術祭というフェスティバルのディレクターを、10回目となる2019年を機にどうやってスイッチできるかということである。意識としても、実態としても極めて日本的な意味で「公的」な組織・運営のこの舞台フェスティバルにおいて、ある意味、独断的にプログラムを策定することは、非常に危ういバランスのもとで成り立っている。すでに述べたことにつながるが、日本で一般的に「公的」な組織・催事において、そのようなディレクター制度やディレクターを支える制作型のドラマトゥルクが強く求められているとは私は感じない。今のところ、Kyoto Experimentにおいては、私が企画者だからバランスを保っているのが実態だろう。しかしこの仕組みを当たり前にしたい。必ずしも個人である必要はないが、何となくの合議制ではない、意図が明確に浮かび上がる形でプログラムをつくることがこれからも必要だと思う。そうしたとき初めて、観客は個人的な利害関心(好き嫌い)を超えて、作品と出会うチャンスが出てくるはずだ。そして、現実を忘れさせてくれるという意味で一過性の、単なる「イベント」や「消費」としてではない形で、芸術と出会う場をこの催しが用意することになるだろう。

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搬入プロジェクト ―京都・岡崎計画―
撮影:山城大督
ある空間に入らなそうでギリギリ入る巨大な物体を設計・製作し、それを文字通り“搬入”するパフォーマンス作品。 2008年に演劇などを企画・上演する集団悪魔のしるし(主宰:危口統之)によって初めて上演され、その後は瀬戸内国際芸術祭(2010)、六本木アートナイト(2014)など、日本を代表するアートイベントにも招聘されている。また、海外でもこれまでに7か国10都市で上演。京都ではロームシアター京都オープニング事業として2016年3月に実施。

さて、最初の遠藤さんの言葉に戻る。現在東京オリンピックの文化プログラムに向けて多くのイベントが立ち上がっていて、それらを運営する人材がどこも不足している状況にある。舞台芸術の若い制作者も次々に駆り出されているが、今は忙しくて人手不足だから職にありつけているに過ぎず、本当の意味で舞台芸術制作者の専門性が社会において理解されたわけではないことを知っておくべきだろう。忙殺されることなくその専門性を高める努力と認知される仕組みをつくらなければ、2021年以降この流れが途絶えたとき、一気に規模も小さくなり、仕事を失ってしまうことは目に見えている。それは単にアートマネージャーの問題ではなく、定量的な評価に馴染まないアートの存続にとって問題なのである。

最後にもう一つだけ遠藤さんの言葉を紹介しておく。

好きにしよし

思ったようにやりなさい、ということである。

(2017年3月27日)

今後の予定

  • KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017(kyoto-ex.jp)

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次回執筆者

バトンタッチメッセージ

弁護士として一般民事から企業法務まで幅広く法律業務を行うとともに、著作権法や風営法など音楽やアートを支える法律分野にも力を入れていらっしゃる齋藤さん。クラブやダンス教室などダンス営業を規制する風営法問題に取り組み、15万以上の法改正を求める署名を集め、ダンス文化推進議員連盟に届けた「Let’s DANCE署名推進委員会」の共同代表として、ロビー活動の中心を担ったお仕事はとりわけ記憶に新しいところ。ご自身の職能と関心を結びつけ、広く音楽やアートを支えるインフラ整備にコミットする姿勢に、新しい形のアートマネジメントを見た気がします。(橋本裕介│ロームシアター京都/KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター)

イベントではなくインフラとしてのアート活動のために 目次

1
舞台芸術制作者の専門性
2
アートの源泉として夜
3
2030年を見据えるところから始まるアートマネジメント
4
「アーツカウンシル」のプログラムオフィサーとして取り組んできたこと
5
エクストリームな文化施設にできること
6
みちのくやアジアを巡りながら考えていること
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